美は環境を救えるか

岡田哲史

環境計画学科 環境・建築デザイン専攻

私はこれまで建築家として研究と実践の双方をおこなってきた。大学や国内外の研究機関で建築学専門分野の研究に従事する一方で、それを実社会において反映させるべく研究所を設立し、建築家として街づくりに関する企画や施設の設計にも携わり、大小あわせて30余の建築物を実現させてきた。歴史の本を書いたり、論考を雑誌に書いたりもしてきたが、私の専門は建築設計(ルビ:デザイン)である。設計活動を本格的にはじめる以前からおこなってきた歴史や理論、そして都市(ルビ:まち)に関する研究は、今日の実践的な活動の根拠を確かにするものとなっている。

「建築学」という学問は、大きく分けると科学的側面と芸術学的側面がある。進歩的な建築教育プログラムを確立している欧米のアカデミアでは今日、芸術的側面を前面に打ち出し、科学的側面をむしろその背後に位置づけるのが一般的にさえなりつつある。それを考えれば、本学の「環境科学部・環境計画学科」のもとにおかれた「環境デザイン」の専攻は、従来の科学的側面を芸術学的側面が補完するシステムをもつという点で、わが国においてはきわめて先進的であり、グローバルな地平を築こうとする教育思想や環境は、建築家にとってもデザインの本領をいかんなく発揮できる魅力的な場というにふさわしい。

 ところで「環境学」とは、いったい何をいうのだろうか。その答えさがしをするばあい、そもそも「環境学」が学問として要請される動機は何だったか、を考えるとわかりやすい。人間は、大切な何かを失ったことに気づくと、たとえそれが幻想であったとしても、それを再び手にしたいと欲望することがある。結論からいえば、「環境学」とは、近代の暴走する資本が人間の生環境を脅かしてしまったこと、さらには地球上の生態系をも狂わせてしまったことに対するリアクションとして生まれた学問であり、その欠如を埋め合わせるための手段にほかならない、ということになる。とすれば、「環境学」がとりくむべき課題とは、人々が失ってしまったと思うがゆえにポッカリと空いてしまった大切な穴=環境を、それを扱う諸学によって何らかの埋め合わせをおこなうことであるといえるだろう。

 私は建築家の立場からその「環境学」にコミットすることになるが、とりあえずは、人々が「居住する環境」や「活動する環境」について研究をおこない、それを実社会における街づくりや施設づくりに今日的なデザインの実践として反映させたいと考える。数値で解析できる科学的側面もさることながら、それではどうにもならない感性の領域で芸術的側面から環境を考えるというテーマは、今日のデータベース化しつつある人間、ひいては社会を考えると困難を承知のうえでの取り組みだが、建築学のみならず哲学や社会学を横断するおおきなテーマだけにやりがいもおおきい。

今日、芸術作品のこの根源的な構造は、陰翳に隠されている。その形而上学的な運命の極点において、芸術は、ニヒリスティックな権力、「自己を無にする無」となって、美の領土という砂漠を彷徨い、永劫にわたって自己の分裂のまわりをめぐりつづけている。芸術の疎外は、人間の根源的な史的空間そのものの疎外を指すがゆえに、根本的な疎外である。芸術作品とともに人間が喪失しかけているものとは、実際、それがどれほど貴重なものであるとしても、単なる文化財ではないし、また創造のエネルギーの特権的な表現ですらない。そうではなく、むしろ人間の世界という空間そのもの、そこでしか人間を人間として自己を見出すことができないような空間、そこでしか行為し認識することができないような空間をこそ、人間は失いかけているのである。(ジョルジョ・アガンベン著、岡田温司他訳『中身のない人間』)

 失いかけているものを救うのならまだしも、失われたものをそっくりそのまま再現することにどれだけのリアリティがあるだろうか。むしろ失いかけているものや失われたものから学ぶことのできる現代性を今日の感性や知恵で、いかに建築美や空間美として表現するか。私の環境学の課題はその付加価値の創出にあると思う。