琵琶湖水環境保全の住民運動論

−シナリオと社会実験のススメ−

近藤隆二郎

環境計画学科環境社会計画専攻

1.はじめに/琵琶湖水環境保全の歴史

 琵琶湖をめぐる住民運動において、著名なものは石けん運動である。そのような“身近な環境づくり”の流れから滋賀県は環境熱心県へと脱皮し、湖沼会議や琵琶湖ルールなどといった展開へつながっていると思われる。特筆すべきは、琵琶湖を中心としたこのような環境、水環境保全への運動の盛り上がりが、“ごくふつうの”住民や地域団体からも沸き上がったということにあるという。往時の環境運動は、先鋭的な思想家らが地域外部から持ち込むことが多いのだが、滋賀の場合はむしろふつうの“ムラ”であった組織からも沸き上がったとされている。

2.じっくりとそれぞれの活動に取り組む姿勢

 しかしながら、そのような経緯があったためか、その後の運動の展開は、地域や地区が単位となった地道なコツコツとした運動が一本気に続くとともに、逆に他の活動とはあまり交流しないという独歩的な傾向もあるように感じる。NPO活動が盛んになり、多種多様なテーマ別の活動もさかんになってはいるが、なかなかその関係が広がるという現象は見えにくい。

 滋賀県内の環境配慮団体のネットワーク(つきあい)を調査した西尾によれば、県内のNPOの傾向は「交流への自主性は低いが、他団体と交流するきかっけを持つことを望んでいる、受け身の姿勢である」1)とされている。

 また、近年の『湖国21世紀事業』や『世界水フォーラム』でNPO団体らが集結する様相は見たものの、“オマツリ”的な面が強調されてしまう印象があった。記念的なイベントにおいて各団体が事業展開を行うことによって同じ「コト」を共有することはできても、そのことが本来の活動へフィードバックし、実質的な活動における交流になるという経緯は、なかなか難しかったようである。

 私自身、いくつかのNPOに関係しているが、このような、つながりや連携の苦手さは実感としても感じている。日常の活動で精一杯という面もある。このつながりをつくっていくにはどうしたらよいだろうか。本稿を通じて考えてみたい。

3.シナリオを共有するということ

 このようなつながりをつくっていくものとして、「シナリオ」と「社会実験」の重要性を述べておきたい。

 NPO活動でも市民活動でも、「何のために」といった目指すべき方向性(目的)はある程度持っているのであり、いかなる将来像を描いているかというそれぞれのビジョンを共有することから協働が芽生えるのではないだろうか。とはいえ、何となくという不明瞭なビジョンしか提示していない団体も多い。目的を明確化するNPOに対して、自治会や町内会といった地域団体には、当然ではあるものの、明確な目的を提示しているわけではない。しかし、人間関係でも会社関係でも、お互いに協働してくためには、相手の目的が理解共有しないとつきあいは成り立たないのではないだろうか。とくに異種の場合は、理想とする目的像を理解しあわないと、その場限りのつながり方しかできなくなる可能性が大きく、せっかくの出会いの機会がいかされないことになってしまう。

 「社会実験」とは、シナリオという理想の将来像を仮設的に実験してみるという態度である。いわば、オマツリではなく、将来像との明確な関係性の中に具体的な活動を位置づけてみる、試してみるという姿勢である。交通社会実験などが多く実施されているが、例えば、万国博覧会なども本来はこのような実験の意味も強く持っていたのである。

 琵琶湖における将来ビジョンについては、『マザーレイク21計画』(2000)が基礎となることは異論は無いだろう2)。そこには、「活力ある営みのなかで、琵琶湖と人とが共生する姿」をビジョンとして、昭和40年代→30年代の水質へと戻すシナリオが描かれていて非常に興味深い(図1)。このシナリオに基づき、各地で流域協議会がたちあがり、そのネットワーク組織としての、「(仮)琵琶湖ワークショップ」も立ち上がろうとしている。


図1 『マザーレイク21計画』「第四章計画の目標等」より

4.シナリオと参画−個別と全体

 では、このようなシナリオのつくりかたと、そのシナリオへ市民がどのようにかかわるかについて述べてみたい。

 シナリオは決してひとつに固定されるものではない。むしろ「書き換え」られて「更新される」ことが必要である。この「書き換え」であるが、霞ヶ浦のアサザプロジェクト等を対象として、参加者のシナリオ(ものがたり)の重層化について調査した村上によると、「実現中の共通目標も、将来の共通目標もそれぞれ複数存在している。実現中の共通目標としては、『沿岸植生帯の復元』、『里山の再整備』、『子供が明るい未来を見る』といったことが共有されている。将来の共通目標は『霞ヶ浦の水質浄化』と『子供が健全に育つ』ことが大きな二軸である。さらに、共通した目標の先に、『再び霞ヶ浦で泳ぐ』『きれいな霞ヶ浦でカヌーをする』といった、具体的な目標を持った人々がおり、共通目標が単なるお題目にはなっていない。」3)と、基本となるシナリオを参加者がそれぞれ自分なりに「書き換え」ていることがわかる(図2)。


図2 霞ヶ浦アサザプロジェクトの重層シナリオ図 村上悟(2001): 多主体参加による地域環境の持続的利用・管理システムとしての演劇型地域経営に関する研究, 滋賀県立大学大学院環境科学研究科修士論文, p.65より

 こういった、広くかかわる参加者がメイン・シナリオをそれぞれで書き換えていく動きは、ソフトウェアの開発方式としての「バザール方式」に類似している。ソフトウェアの開発の方法論には、「伽藍方式(Cathedral)」と「バザール方式(Bazaar)」があり、Bazaarの例としてLinuxが著名である。Cathedralとは、設計者がすべての計画と体制を確立して開発する、企業などで一般的に行われている開発方式をいい、あたかも大聖堂の建築を行うがごとく厳かで大がかりであることを指す。これに対してBazaar方式とは、知らない者同士がバザーで売買を行うようにアイディアや技術、またはソフトウェアそのものを持ち寄って互いに交換しながら作り上げていくことを指している。

 Bazaar方式では、全体をとりまとめる責任者がいないにもかかわらず、それなりの秩序を保ったコミュニティが成立しているという。Bazaar方式が有効であるためには幾つかの条件があり、まず開発の最初から始めることは難しく、とりあえず何か動くものが必要であること、最初はそうでなくても、「将来よいものに発展していくであろう」ということを開発候補者たちに納得させられること、また参加者の意見やアイデアを受け入れることができることが必要であり、コーディネーターやリーダーの対人能力やコミュニケーション能力が優れていることが不可欠であるとしている。このような動きは、「オープンソース・ムーブメント」として広がりを見せている。従来のビジネスモデルでは、企業秘密、特許、著作権などでプログラムを保護してきたが、プログラムの内部を公開し、自由に配布させながら、付加価値ビジネスを認めるというこの考え方が、全世界で注目を集めるようになっている。

5.パッチワークとしてのシナリオ

 末石は、「形態合理性」を「あらゆる社会要因がもつ現在の目的とは無関係に、要因間の機能の相互交流の中からそれぞれの役割を発見し、全体としての新しい目的を模索するシステム形式」4)として、その中にシステムを設定することを提起している(図3)。この場合、個である主体としての人間の自律性や自発性が前提とされている。持続可能性の視点からは、この形態合理性が重要である。自主的な意思決定と、そして目標やシステム自体が柔軟に変えられるため、そこには様々な状況にあわせた改変の可能性があり、結果として持続可能性が高まると言えよう。シナリオづくりにも適用できる。

 さらに、形態合理モデルに基づく地域社会のモデルは、宮本がノーガードに注目して次のように述べている。「ノーガードは、社会システムと生態系との共進化を促進するためには、地域社会が自己決定権を持ち、他の地域社会と対等の関係で結ばれる必要があると見る。一つ一つの社会システムが自立して多様な文化を形成しているときに、それらはそれぞれの地域の生態系にもっとも適したシステムを主体的に選択することが可能になる。こうして、多様な社会システムと多様な生態系とが複雑に関係し合って出来上がる全体の構造は、あたかも、多様な布きれをつなぎ合わせて作り上げられるパッチワークのようである。ノーガードは、これを『共進化するパッチワーク・キルト』というように呼んでいる。共進化するパッチワーク・キルトは、いつも同じ形をしているのではなく、一つ一つの切れ端が相互作用の中で進化し、全体の模様も時間と共に移り変わっていく。このように、ノーガードにおいては、人間の生活は、社会システムと生態系との共進化のただ中において織りなされるものとみなされるのである」5)。個が自律して作用している中から全体としての形が浮かび上がるモデルであり、シナリオづくりも、メイン・シナリオに各参加者が自分のコトバに書き換えた個別のシナリオが折り重なるようにつながっている“パッチワーク”のようなシナリオづくりが好ましいのである。


図3 システム様式の比較末石冨太郎(1989): 人間と環境が交流する様式について−環境社会システムヘのアプローチ―, 社会・経済システム,7号, p2

6.シナリオのつくりかた

 では、具体的に、どのようにシナリオはつくられるのであろうか。NPOはともかくとして、従来の地域のシナリオと呼ばれるものは、委員会などの組織や行政主導でつくりあげたところが多い。たとえば、各市町村等でも策定されている「環境基本計画」も、市民参加をうながしているものの、具体的なシナリオという将来像は、委員会という中で決定されることが多い。この状況にはやむを得ない面もある。それは対象となる地域の大きさである。市町村という規模は、生活感覚とは乖離しつつあり、市町村を地域としたシナリオを描いても、生活実感としては実感しにくいのである。とくに、実際は多様な地域があるものの、ひとつのシナリオとして描かなければならないため、そこにはおのずと「地球環境に配慮したまち」「自然をいかした活力ある地域づくり」などといった抽象度の高い代わりばえのない言葉が並んでしまう。そうなってしまうと、生活実感の基づいて、市民が声を挙げることはなかなか難しいのである。市町村合併を迎え、さらに行政区が巨大化すると、この傾向はますます顕著になっていくであろう。

 こういった状況の中、県内の事例で注目すべきは、伊吹町、山東町、米原町などで実施されている地区計画づくりである。「字」単位でのシナリオづくりは、小さなものでは、数世帯によるものもある。じっくりと自分の地域を見直し、そこから「宝物」を見つけ出して、10年後の方向性を描き出すという、専門家ではない市民が手作業でまとめあげたそのプロセスは、非常に参考になる6)。表1は、伊吹町地区計画の各地区のキャッチフレーズ(目標)であり、その地域ならではのキーワードが使われていることがわかるだろう。



 また、琵琶湖に浮かぶ有人島である沖島の取り組みについても紹介しておきたい。沖島は高齢化や漁業衰退などの問題を抱える島ではあるが、その一方で、要支援・要介護率が低く、安全で隣近所との濃厚なコミュニティを保っている。その暮らし方が、「沖島にはこれからの日本が目指すべき姿がある」として、将来の近江八幡市のモデルになるものとして取り上げられ、『沖島21計画夢プラン』(2003)がつくられた7)。その報告書には、以前の行政が既成メニューを一部の住民に押し付けたプランへの反省の言葉があり、押しつけのシナリオが役に立たなかったことがわかる。その反省に基づき、KJ法を駆使して、島民によるひとつひとつのことば(カード)を大切にし、決して捨て去らずにくみ取ってプランにつなげている(図4)。そこで得られたのは、「じっくり聞いてみないとわからない」ということである。「エコミュージアムづくり」や「エコツーリズムの場へ」といったシナリオを外から付与すのは簡単である。私自身もそのような提案をしたことは多々ある。しかし、この沖島のプロセスや伊吹町の各字単位における地区計画においては、じっくりとゆっくりと地域のシナリオが編み出され、描かれるプロセスを見ることができる。逆に言うと、出てきたシナリオはそれほど“かっこよく”はない。

 各地域ごとのシナリオが描かれ、そして全体としての琵琶湖をめぐるシナリオ群が何重にも折り重なりながらつながったとき、『マザーレイク21』のシナリオは初めて全体像が見えるのではないだろうか。「対象としての琵琶湖」から「舞台としての琵琶湖」に変わらなければならない。

図4 沖島21世紀夢プランにおける具体策図解「沖島の未来づくり」沖島21世紀夢プラン推進会議(2003): 沖島21世紀夢プラン, 近江八幡市, pp69-70

7.シナリオの表現

 では、生み出されたシナリオをどのように表現し、共有すればよいだろうか。村上は表2のようにシナリオの評価する軸として7つ−「わかりやすさ」「既存の物語との融合」「参加の容易さ」「シナリオの相互リンクの豊かさ」「固有性」「空間的な連続性」「時間的な連続性」−を挙げている8)。これを参考にすると、シナリオという表現に求められる条件は、簡単には下記の3点にまとめることができる。

?ロマン(理想)とステップ(段階)を明記

?わかりやすさ(表現)

?わたしとの関係が見える(書き換えやすさ)

 例えば、アサザプロジェクトにおいては、図5のようなイラストがそのシナリオを分かりやすく明示しており、活動の展開に重要や役割を担っている。

 また、このシナリオを他人事のように眺めるのではなく、自分に関係するものとして考えるには、そのシナリオに「わたし」を位置づけることが重要である。このことは、次のようなRPGの良いシナリオについての論にも通じるものがある。「整理すると、プレイヤーがセッション中自分の考えで行動し続け、本当の、そして自分で満足できる目的を発見し、多少の(プレイヤーから見ればかなりの)リスクを背負う選択をしてその目的を達成するためにかなりの努力をした結果それなりに満足のいく見返りをマスターが出してくれたと言うときにプレイヤーはそのシナリオがおもしろかったといえる」9)。ここで「プレイヤー」を「参加者(団体)」と読み替えると理解できよう。

表2 物語の評価軸から見た各事例

村上悟(2001):多主体参加による地域環境の持続的利用・管理システムとしての演劇型地域経営に関する研究, 滋賀県立大学大学院環境科学研究科修士論文, p.85

図5 アサザプロジェクト100年計画 http://www.kasumigaura.net/asaza/

8.4logyからみたシナリオのテーマ

 このような活発化するシナリオライティングの動きに、4logy10)の視点からさらに追加を考えてみたい。『マザーレイク21』等における琵琶湖をめぐるシナリオは、当然のことながら、「自然(ecology)」(とくに水質)が中心であり、そこに「社会/参加(sociology)」という面が絡んできている。ここに「技術/わざ(technology)」と「文化/こころ(cosmology)」を加えてはいかがだろうか。つまりは、歴史、文化、技術などである。水質を昭和40年代に戻すだけではなく、私たちの暮らしも含めて変えていく段階的シナリオを描かなければならないだろう。単純に「昭和40年代の暮らしに戻ろう」とういことではないが、歴史に含まれるその暮らし方は、ひとつの可能性のある選択肢としても再評価・再提示すべきではないだろうか。

 そして、そこにこそあらたな市民活動がつながっていくことができるのではないだろうか。例えば、『ひこね自転車生活をすすめる会』で考える自転車を中心としたライフスタイル、また『近江中山道を楽しむ会』で実験されている街道文化の体験メニュー群を中心としたスローツーリズムのモデルは、「琵琶湖と人とが共生する姿」というシナリオに重なりつながることができるだろう。昭和30年代の水質に琵琶湖がなったときに私たち自身がどのような暮らしをしているのだろうか。『マザーレイク21』のシナリオに、さらに私たちが追加・参加して、シナリオを書き換えて更新していかなければならない。

 

9.参加の3軸−機能×意味×身体−

 シナリオを描くことは、参加の舞台を自分でつくるということである。では、この動きは従来の市民参加の動きとどのような関係性を持っているのであろうか。

 市民参加のプロセスについては、昔からシェリー・アーンスタインの「参加のはしご」が参加ステップの説明としては多用されてきた。しかし、この梯子は参加形態を論じている(機能的参加の梯子)のであって、参加主体の内面的なものではない。そこで「意味的参加のはしご」を提案した11)。意味的参加とは、参加手法を参加主体による意味付けから評価する視点であり、環境やまちに対する愛着を形成するという意味では、参加というよりも「関係付け」「結合様式のデザイン」と言った方がよいかも知れない。

 そして、さらに第3の軸として「身体的参加のはしご」を考えてみたい(図6)。五感や地域の職人ワザなどに注目していくと、そこには、知識や意識などではとらえられない身体感覚に基づく継承の部分があることに気付く。琵琶湖の漁師の身体が持っている感覚を「コトバ」や知識でそう簡単に受け継ぐことができるだろうか。シナリオに「わたし」を登場させるとき、そこには、私という身体と地域との関係も描いているのである。


図6 参加の3軸

 五感への展開は、ある意味では、「垂直(時間)」から「水平(空間)」へのシフトとも言える。歴史という「時間」の流れにおける体験から、身体を用いた五感体験という「空間」へのシフトである。身体と環境、知の関係を模式的に書くと、図7のようになる。つまり、環境と知の媒介としての「歴史」と、知と身体の媒介としての「心」という要素に加え、身体と環境をつなぐものとしての「五感」が存在する。身体からとらえる環境は、空間としての新たな魅力を掘り起こし、身体のアンテナを鋭敏にして地域に参画していくことができることにもつながる。実際は、最も困難な参加の軸がこの「身体的参加」であろう。なぜなら、身体性からその地域のシナリオを読み解き、さらに現代社会ではおろそかになっている地域とのつながりを“頭”や“知識”ではなく、身体に覚えさせるということは、身体のセンスと時間を要する。


図7 身体と五感の関係

10.社会実験のススメ

 「シナリオ」について長く述べてきたが、「社会実験」についても述べておこう。「シナリオ」は何度も書き換えられることが好ましく、更新されていくことがその指示されることにつながる。とはいえ、シナリオがロマン的であればあるほど、現実との乖離が広がることも事実である。活動をすすめていく上では、そのようなシナリオへ向かっているという路線の確認・共有と新たなアイデアの模索をしなければならない。そこで、社会実験が必要なのである。おそらくは、通常の活動もシナリオを確認する「社会実験」に含まれるのではあるが、シナリオを書き換えるためにフィードバックするような余裕と反省ができないことも多々ある。

 ここでは、社会実験として成功と呼ばれている大規模イベントの事例を紹介しておく。『SURF'90』(Sagamiwan Urban Resort Festival in 1990)は、相模湾沿岸の13市町村を舞台に1990年に開催された海の総合イベントであり、「人と海との共生」を目指し、新しい方策・手法の開発をイベントを実験として用いた(図8,表3)。イベント総数は、大小550であり、そのひとつひとつについて触れるわけには行かないが、細分化・体系化されたねらいに沿ってイベントが類型化されて整理されている12)。つまりは、「何のための」「シナリオのどの部分を確認するための」イベントであるかが明確にされているのである。つまり、細分化、階層化された課題のもとにイベントが位置づけされ、実施・評価を通して、提案を導き出している。「相模湾における人と海との共生」というシナリオへの提案を実験することで、そのシナリオを書き換えて更新することができたのである。それは、個別シナリオを明確化かつ体系化して統合していたことが挙げられる。それぞれのシナリオがパッチワークのように重層化してメインのシナリオへつながっていたと言えよう。


図8 『SURF'90』のねらい


11.100年の計へ

 市町村合併など行政区分がゆらぐ中、逆にますます自分の地域というものの「ものがたり」が重視されるようになるだろう。おそらくは、住む場所を「選ぶ」、つまりは地域が「選ばれる」時代になると思われる。そのときに重要なのは、その地域の持つ腰の強い元気なシナリオではないだろうか。

 水口町で実施したまちづくり講座で、「水口町への提案」をカードで出し、それを10年後、50年後、100年後というスケールに並べてみた。すると、実際に100年後を想像できたカードは1枚しかなかった。実は私たちは、100年後を見据えたシナリオ・ライティングをしていないのである。

 シナリオは何通りあっても良い。いろいろ隣接しているシナリオをつないでみよう。他団体や他地域のシナリオを読み解き、書き換えてみよう。ただし、そのつなぎ方は、最初から大きな設計図があり、「この部分が○○団体へ」「ここは△△へ任そう」といった伽藍的な方法では広がらない。あえて異種でもむりやりに重ねてみて、共有部分を出してみることが大切なのではないだろうか。そのような書き換えの盛んな運動にしてみたい。琵琶湖をめぐる、壮大なパッチワークのようなシナリオ曼陀羅を見てみたいものだ。


註および参考文献

1)西尾好未(2000): 滋賀県内における環境配慮団体のネットワークのあり方に関する調査研究, 滋賀県立大学環境科学部学士論文, p.56

2)http://www.pref.shiga.jp/biwako/koai/mother21/

3)村上悟(2001): 多主体参加による地域環境の持続的利用・管理システムとしての演劇型地域経営に関する研究− 湿地環境の保全・再生のケーススタディより−, 滋賀県立大学大学院環境科学研究科修士論文, p.65

4)末石冨太郎(1993): 資源循環社会システムの社会実験, 土木学会環境システム委員会第3回地域シンポジウム講演論文集(都市における廃棄物問題を総合的に考える), p.10

5)丸山真人(1996): エコロジー批判と反批判, 「環境と生態系の社会学」所収, 岩波書店, pp178-179

6)平野晶子(2002): 地区を単位とする住民主体型まちづくりのあり方に関する考察−伊吹町地区計画を事例として−, 滋賀県立大学環境科学部学士論文, pp1-81

7)沖島21世紀夢プラン推進会議(2003): 沖島21世紀夢プラン, 近江八幡市

8)村上悟(2001): 前掲論文, pp82-86

9)http://www.bekkoame.ne.jp/ro/kami/thinking/scinario.html

10)近藤隆二郎(1996):沐浴都市のラフスケッチ−水文化の再構成をめざして−, 都市問題研究第48巻第8号(通巻548号), pp71-84.

11)近藤隆二郎(1994): 環境イメージの発達過程における役割行為の意義と効果に関する基礎的研究,大阪大学学位論文, pp210-212

12)(社)サーフ'90交流協会(1991): SURF'90白書, 同協会