琵琶湖水環境保全に関する滋賀県政

客員教授 近藤月彦

滋賀県政策調整部

滋賀県政と琵琶湖

 湖を抱える県は多いが、県域のほぼ全てが一つの湖の集水域という地域は滋賀県のほかにはない。県内であれば、琵琶湖から遠く離れたところの雨水も、家庭排水も、工場排水も、農業排水も、みんな琵琶湖に入ってくる。農地を宅地に、山林を工場用地にといった土地利用の変化や、各家々が下水道につながるといった家庭生活の変化も、いろんな形で琵琶湖に映し出されてくる。戦前までなら、そうした変化は規模も小さく、影響の及ぶ範囲も大きさもだいたいは局地的なものだったろう。しかし、1960年代後半の高度経済成長期以降の変化は、大規模で急激なものだったから、琵琶湖全体に影響が及ぶようになった。

 また、一方で、琵琶湖への依存度も大きくなった。とりわけ琵琶湖総合開発によって、例えば、それまで河川水や井戸水などに頼っていた水道用水や農業用水のかなりの部分が、琵琶湖の水でまかなわれるようになってきた。下流府県の琵琶湖への依存度も大きくなっている。影響度や依存度が高まれば、当然、「琵琶湖」の問題は県政の重要なテーマになる。琵琶湖環境問題への対応では、富栄養化防止条例がその後の県政の方向を決定づけた。まず、高度成長期の地域社会の変貌、琵琶湖総合開発、富栄養化防止条例を振り返ってみよう。

滋賀県の社会構造の変貌

琵琶湖の水環境の変化をたどってみると、1960年代後半がおおきな節目になっている。65年からの10~15年間で、滋賀県という地域社会はそれまでとはがらりと変わった。戦後復興期を抜け出した当時、政府は「所得倍増計画」(60年)、「全国総合開発計画」(62年)を相次いで打ち出し、工業化による地域開発政策を進めた。滋賀県でも、これに呼応して精力的に工業開発に取り組んだ。県と市町村が協力して工業用地を準備し、県外から工場を誘致した。その結果、65年からの10年間で800社近くの工場が立地している。これほど多くの工場誘致に成功した要因は何だったのか。進出企業へのアンケートを見ると、広い土地が安く買えた、交通条件がよく整備されていた、労働供給力が大きかった、自治体の強い協力が得られた、という回答が上位を占めている。近畿の中では用地価格が極めて安い、首都圏・中京圏・京阪神圏を結ぶ交通の要衝である(加えて、名神高速道路や東海道新幹線も60年代前半に開通している)、もともと米作中心の農業県で工場労働との兼業が可能な働き手がいた、といった滋賀県の特性が工場進出の決め手になったといえる。

 これほど多くの工場が県下各地に立地した結果、産業構造は大きく変わった。産業別就業者では、それまで最も多かった1次産業の就業者が急速に減少し、代わりに2次産業の就業者が大幅に増えた。今まで農業をしていた人達が工場に勤めるようになったのである。ただ、農業を止めてしまったわけではなくて、工場勤務の傍ら農業をするという形に変わった。それは今日、農家の兼業率が全国1,2を争う高さとなって現れているし、農業の姿を大きく変えた。工業の生産高も大幅に増えた。60年には1,000億円に過ぎなかった工業出荷額は、65年に2倍、70年に7倍、75年には実に15倍と、驚くような勢いで増え続けた。現在では2次産業のウエイトが日本で一番高い県になっている。

表1 産業別就業者の推移 (単位:%)

1次産業 2次産業 3次産業
1950 57.4 18.3 24.3
1960 43.6 25.3 31.1
1970 27.7 35.2 37.1
1980 11.7 40.0 48.3

表2 工業出荷額の推移 (単位:億円)

60年 65年 70年 75年
出荷額 1090 2185 6736 15265

 産業構造が大きく変わるのと同時に、人口の状況も変わった。日本では増加人口を都市が吸収し、農村の人口はほぼ一定に保たれるパターンが長らく続いてきた。滋賀県は1880年代~1940年代前半までは65〜70万人、1960年代中頃までは85万人で安定し、農村地域としての性格を強く持っていた地域であった。高度成長期以降、このパターンが崩れて、滋賀県は京阪神都市圏の人口の受け皿になった。その背景には核家族化の進行、国民所得の増加などによって住宅需要が拡大したことがあるが、交通の利便性、地価の安さといった工場進出とも共通する利点に加えて、自然が豊かにあることも人々を滋賀県にひきつけることになったであろう。60年代末頃から人口流入の傾向が顕著になり、毎年2万人くらい、率にすると2%強の増加率で人口が増え続けてきた。75年には100万人を超え、2000年では65年の 1.6倍もの人が滋賀県で暮らしている。日本の人口が減少していく中で、滋賀県では人口増加がこれからも続くと予測されている。 農業から工業中心への産業構造の転換と人口の急増による地域社会の変貌は、琵琶湖水環境の最大の変化要因といってよいだろう。

表3 滋賀県人口の推移 (単位:千人)

65年 70年 75年 80年 85年
人口 862 912 1006 1096 1167

水資源と琵琶湖

産業構造の転換・人口の急増と並ぶ大きな変化要因は、琵琶湖の水資源開発であろう。淀川水系の最上流にある琵琶湖の水は、下流府県にとっても古くから重要な水資源であった。琵琶湖から京都へ疎水が開削され、その水でおこした電気で、日本で初めての市内電車が京都を走ったという話はよく知られている。高度成長期に入ると、下流の阪神地域でも工業用水や都市用水が逼迫した。琵琶湖の水をもっと利用したい、という声が大きくなった。1956年には国・関係府県などで構成する「琵琶湖総合開発協議会」が設けられ、検討が始まった。どんな形で琵琶湖の水利用を拡大するのか、いろんな案が出され、滋賀県と下流府県の攻めぎあいもあった。長年の議論の末、特別法が制定され、72~97年の25年間にわたって琵琶湖総合開発計画が進められてきた。1兆9千億円もの巨費を投入して、利水、治水、保全に関係する多くの事業がこれだけの長い期間行われてきただけに、今の琵琶湖の姿を決めてきたとも言える。

 もとは下流府県の水需要に対応することから検討が始まったが、滋賀県側からすると琵琶湖の水をこれまで以上に下流に流して、被害や影響だけが残ってはたまらない。そこで、最終的にまとまった計画には、いろんな要素が含まれている。滋賀県側の立場からすると、まず、琵琶湖の洪水被害・渇水被害を解消するということがある。琵琶湖は湖面積の6倍もの集水域をもっているので、雨が降ったときの水位の上がり方も、雨が止んだあとの水位の下がり方も、普通の河川に比べると、きわめてゆっくりしている。洪水や渇水の影響が長く続くということになる。瀬田川に洗堰ができる前の洪水の例(1896年)では、最高水位が3.6mに達し、浸水家屋が5万戸以上、彦根では全市街地が浸水して、平常水位に戻るのに210日もかかったという。近年でも、1965年と72年の洪水で数千haの浸水が生じている。2つ目には地域経済開発を進めたいということがある。計画が検討されていた50年代の滋賀県は、先に見たように農業県だった。その基盤の農地は琵琶湖沿岸部では低湿地が多くて生産性が低く、県民所得も低位にあった。農業基盤整備や工業開発などの地域経済開発が強く求められていた。3つ目には、その地域開発を進めるために、琵琶湖の水を県内でも有効に利用したいということがあった。4つ目には琵琶湖の水質や自然環境を保全したいということがある。60年代に入って工場立地や宅地開発が進み、琵琶湖の水質悪化や自然環境の破壊が問題になってきていたからである。

 こうした滋賀県の主張も盛り込んで、計画では、

?琵琶湖水位+0.3m~−1.5mの範囲で水資源利用を拡大し、新たに40m3/秒の利水を可能にする、

?あわせて琵琶湖の治水、水質保全と滋賀県の地域整備を行うこと

 になった。水資源開発と地域整備とを一体として実施することになったわけである。また、事業費の滋賀県負担分についても、国は補助率の嵩上げ、下流の利水団体は負担金という形で財政的な協力をする仕組みが作られた。長年の懸案だった近畿圏の水問題を解決するためにまとめられたこの総合開発は、琵琶湖・淀川水系における上下流協調の最初のケースでもある

 琵琶湖総合開発の事業体系(表4)(省略)を見ると、山から湖まで幅広く事業が実施されてきたことがわかる。水環境の変化にも様々の形で関係している。例えば、農業では、土地改良が進んで農作業が楽になったし、用水供給も改善されて、梅雨の雨を待たなくても田植えができるようになった。一方で、用水供給を改善するために琵琶湖への水源依存度が高まったし、用水と排水が分離されて水の反復利用が難しくなった。クリークが縦横に走っていた湖辺の低湿農地はかさ上げされて生産性が高くなったが、田んぼと琵琶湖を行き来していたフナなどの魚にとっては産卵場所や稚魚の生息場所が少なくなった。また、家庭生活の面では、下水道が急ピッチで整備されて衛生的な生活ができるようになったし、人口がどんどん増えたにもかかわらず、琵琶湖への汚濁負荷を抑えることができた。また、水道でも琵琶湖への水源転換が進み、安定した供給ができるようになった。しかし、家庭排水が大きな割合を占めていた小さな河川では流れる水が少なくなったし、水の使用量も急速に増えていった。湖の周りには、1.5mの水位低下に耐えられるように湖岸堤がつくられた。今まで簡単に近づけなかった水際を自動車で走れるようになり、観光やレジャー利用の面では琵琶湖の新しい魅力に大勢の人が触れられるようになった。しかし、陸地と湖は完全に分断されて、生物にとって重要な場所である推移帯が失われていった。新たなレジャー利用に伴う問題で、2002年に「琵琶湖レジャー利用適正化条例」が制定された例に見られるように、琵琶湖総合開発の結果は、現在の県民生活や琵琶湖環境のありように広く及んでいる。

琵琶湖と水質保全行政

高度成長期の社会の変貌と琵琶湖総合開発の進展は、まず、琵琶湖の水質問題となって現れてきた。60年代後半に琵琶湖を水源とする大津や京都、大阪で水道水がカビ臭くなる現象が起こった。それまでから北湖の透明度が徐々に低下してきていたし、漁業者から琵琶湖が汚れてきたという声は上がっていたが、これは多くの人が水質悪化を実感した現象であった。汚れた水域に生息するプランクトンが増えたことによるものだと分かったが、琵琶湖を汚した第1の原因は、工業開発と人口の急増などによって、琵琶湖に流れ込む汚濁負荷が著しく増えたことだった。CODの負荷量(推計値)で見ると、60年代前半では日量36tだったのが、80年には72tと倍増する勢いで増えている。そこで、72年には公害防止条例を全面改正し、全国的に見ても厳しい排水基準を定めて規制が強化された。また、同時に、初めての総合的環境対策として「琵琶湖環境保全対策」も策定された。工場排水だけでなく、し尿、家庭排水、農業排水、廃棄物など、全ての発生源を対象に対策が考えられ、施設整備が必要なものは琵琶湖総合開発の保全事業としても実施されることになった。即効性のある規制強化策に加えて、73年の第1次石油ショックによる経済の低迷もあって、水質は一旦、改善の方向に転じた。

 しかし、77年5月に至って、比較的きれいとされてきた北湖を中心に突如、淡水赤潮が発生し、大きな問題になった。淡水赤潮はウログレナというプランクトンの異常増殖で起きたものだが、水道水のカビ臭とは違って、湖が変色するという目に見える現象であっただけに県民に強烈な衝撃を与えた。赤潮の発生は琵琶湖の富栄養化が急速に進行した結果だった。その進行をくい止めるには植物プランクトンの栄養になる窒素とリンを減らさないといけない。なかでも琵琶湖ではリンがプランクトンの増殖を左右する制限因子だと考えられていた。75年時点でのリンの発生源別割合は、家庭系48%、工業系29%、農業系14%の順で、家庭排水が最大の発生源になっていた。当時の合成洗剤にはリンが配合されていたからである。もし滋賀県の全家庭で合成洗剤をやめたら、それだけでリンの負荷量を20%近く減らすことができる。しかし、どの家庭にもある合成洗剤の使用を禁止するのは無理だろうな、というのが、対策を検討していたわれわれ行政担当者の正直な気持ちだった。ところが、その当時は合成洗剤の安全性が問題になっていたこともあって、琵琶湖を守るために合成洗剤をやめて石けんを使おうという運動が瞬く間に県民運動として広がっていった。石けんだけを使っている県民は78年では15%に過ぎなかったが、翌79年には5割を越えた(80年には7割に達した)。県民のこの運動を追い風に、合成洗剤の使用禁止も含めて窒素とリンの削減対策を条例で行うという政策が一気に現実のものになった。こうして、淡水赤潮の発生から2年後の79年に「琵琶湖富栄養化防止条例」が制定された。この条例は、リンを含む合成洗剤の使用禁止だけでなく、わが国で初めて窒素・リンの排水規制を行った点でも画期的であった。その波及効果も内外ともに大きかった。外部への波及効果では、霞ヶ浦でも同様の条例が制定されるなど、全国の自治体の水質保全対策や市民の環境保全運動に影響を与えた。国の窒素・リン環境基準の設定、湖沼水質保全法の制定にもつながった。内部的には、県民と行政との協働を実践できたことが大きい。県民の間では環境保全意識が高まって、その後、多くの環境系NPOの活動につながっている。また、県政においても環境重視の姿勢がいっそうはっきりした。単に環境部局だけでなく、いろんな部局に環境を重視する姿勢が浸透していった。82年の琵琶湖研究所の設置、83年の環境学習船「うみのこ」の就航、84年の風景条例の制定と第1回世界湖沼会議の開催、92年のヨシ群落保全条例の制定など、その後も先進的な環境政策を生み出す土壌がこのときに作られたといえよう。

現在、そしてこれからの琵琶湖保全

富栄養化防止条例が動き出して以降、数年間は琵琶湖の水質にめざましい改善が見られた。南湖でも、北湖でもリンやBOD、CODは減少し、透明度も良くなった。84年頃を底に再び濃度が上昇しているCODを除けば、水質で見る限り悪化に歯止めがかかり、現在まで横ばいの状態で推移してきている。流入汚濁負荷も2000年時点では、80年に比べてCODで30%、窒素で16%、リンでは実に60%も減った。集水域の工業生産や人口が引き続き拡大していることからすれば、排水規制と下水道整備を核とする水質保全対策がある程度功を奏していると見ていいだろう。

表5 流入汚濁負荷量の推移 (単位:t/day)

'80 '85 '90 '95 '00
COD 71.7 65.0 60.5 57.4 49.0
T-N 25.2 22.4 22.4 22.3 21.1
T-P 2.9 1.6 1.4 1.4 1.2

しかし、高度成長期前の水質にまではまだ戻っていないし、北湖のリン以外は環境基準を達成できていない。汚濁負荷を減らすことに重点を置いてきたこれまでの対策は限界が見えてきた、ということでもある。そこで、新たな展開を図ろうとしているのが、2000年に作られた「マザーレイク21計画(琵琶湖総合保全整備計画)」である。この計画は、例えば琵琶湖水質保全計画(湖沼法に基づく水質保全総合計画。現在、第4期計画が進行中)のような従来の保全計画にはない、いくつかの特徴を持っている。その一つは、琵琶湖と集水域を一体的な生態系として考えて組み立てられていることである。水質保全の分野だけでなく、水循環を健全に保つための水源かん養の分野、自然生態系を保全・回復させるための自然的環境・景観の分野にわたって対策を行う。第2に、50年後の琵琶湖のあるべき姿を念頭に置いて、そこからバックキャスティングする形で第1期(2010年頃)と第2期(2020年頃)の目標を立てていることである(表6)。計画の推進にあたっても、効果を検証しながら、新たな知見などに基づいて施策を柔軟に組み立てていく目標管理の手法を導入している。第3は、河川流域単位での取組を重視していることである。既に各主体の協働で流域アジェンダづくりが始まっている。長期の取組だけに、計画の成果をあげるには様々な面で努力が必要になる。行政だけでなく、県民をはじめとする各主体との協働ができるかがその鍵になるだろう。また、この計画が琵琶湖と集水域の生態系といういろんな要素が相互に関連しているシームレスな事柄を対象にしているだけに、縦割り型で施策を実施したのではうまくいかない。行政内部では、本当に意味のある施策間の連携をどう生み出していくかが、大きなポイントになる。

マザーレイク21計画でも認識されているが、生物相なども含めて琵琶湖全体を見渡すと、いろいろと懸念される現象が出てきている。今後、どんな手を打たなければいけないか。そんな問題意識から2001年の春に県の関係課・試験研究機関が集まって検討会を立ち上げた。その秋には研究者も加わった「琵琶湖生態系研究会」も設けて検討を進めてきている。さて、その懸念される現象だが、一つは植物プランクトン相の変化である。従来は、春にはこのプランクトン、夏にはこのプランクトンという具合に季節的な出現パターンがあったが、最近では、このパターンが崩れてきている。その最初の兆候は83年に南湖の湖岸部にアオコが発生したことである。当初は南湖の湖岸部に限られていたが、94年からは北湖の湖岸部でも発生するようになった。また、89年には北湖一円で極めて微小なプランクトン (ピコプランクトン)が大発生し、湖水が黒く変色して透明度が2.5mにまで低下するということが起きた。90年代に入ってもアファノテーケ、アファニゾメノンなど、藍藻類に属する新たなプランクトンが次々と出現するようになった。藻類に関係するもう一つの現象は、90年代末頃から北湖に設置されているエリの網に多量の付着物が見られるようになったことである。この付着物の主体もフォルミディウムという藍藻類である。湖底に生息する底生生物群にも、ここ25年ほどの間に大きな変化が起きている。沿岸部に棲む巻貝ではカワニナ類が減少して、ヒメタニシが増加している。二枚貝ではシジミ類が大きく減少した。ユスリカなどの無脊椎動物は現存量が1/4に減った。また、北湖深底部では大型のエラミミズが減少して、小型のイトミミズが著しく増えた。94年以降にはミズムシなど沿岸性の動物が深底部に侵入し、繁殖するようになった。深底部では低酸素化も進んでいる。85年以降、頻繁に溶存酸素量の低下が観測されるようになり、91年にはイオウ酸化細菌チオプローカが発見された。02年には生物由来のマンガン酸化物粒子(メタロゲニウム)の存在が確認された。いずれも湖底部の低酸素化の進行によるものと考えられる。魚類相でも激しい変化が起きている。もともと琵琶湖には50種以上の魚類がおり、特定の種だけが突出することなくバランスを保って生息していた。それまでからある程度の変動はあったが、外来魚のブラックバスとブルーギルが持ち込まれてからその様相が一変する。アユ、ビワマスなどは今でも比較的安定しているが、フナ類、モロコ類、タナゴ類、ワタカなどの在来魚の多くが急激に減少した。さらに、南湖の水草にも大きな変動が見られる。南湖では60~70年代に水草の分布域が急速に小さくなったが、94年以降、再び分布域が広がりはじめた。今では南湖全体を覆うほど繁茂し、在来の水草が回復してきている。なぜ、このように様々な現象が起きているのか。その原因が分かれば取るべき対策も見えてくるが、関連する要因は数多く、要因相互の関係も複雑である。既存の知見や調査データなどをもとに、そのメカニズムの仮説を組み立てる作業が行われている。現時点で、琵琶湖生態系変動の起因と考えられているのは、「湖岸域の構造改変」、「渇水/水位操作による水位低下」、「河川からの砂供給の減少」、「農業濁水の流入」、「外来魚の増加」、「水草の刈取り」、「流入負荷のNP比の変化」などである。

例えば、外来魚が増加すると、その食害で在来魚が減少する。在来魚のうちの水草食魚が減ると水草が食べられなくなるので、水草が増える。動物プランクトンを食べる魚が減ると、動物プランクトンが増え、動物プランクトンに食べられる植物プランクトンが減って、植物プランクトン相が変わる。底生生物や付着生物を食べる魚が減ると、底生生物相が変わる。あるいは、堤防や道路などで湖岸域の構造が改変されると、生物(特に魚)の移動経路が分断される。沿岸帯の植生や水生植物群落も失われる。これらは生物の生息の場や産卵の場を奪うことになり、沿岸帯の生物多様性が損なわれて、沿岸域の水質浄化機能が低下する。その結果、湖内では栄養塩が増え、植物プランクトン相を変化させる。湖底では有機物の蓄積が進んで泥質化が進み、底生生物相が変わる。といった具合に、一つの起因が次々と変化を生じさせていく。この変化の連鎖がどの程度の確かさで起こるのか。どのくらい大きいのか。現在のデータや知見だけでは分からないことも多いが、仮説を立て、それを検証する作業から具体的な対策が見えてくるだろう。ただ、これらの起因とその背景を考えてみると、スポーツフィッシングを楽しみたい、琵琶湖の観光利用を進めたい、といった目的を達成するために、利便性、効率性を重視してきた20世紀型社会の限界と矛盾が現れているように思える。琵琶湖の問題は、持続可能な社会、自然と人間が共生する社会をどうつくっていくのか、という問題を解くことなのである。

※表5.6は紙面の関係上省略した。

(参考文献)

辻悟一編『変貌する産業空間』(世界思想社、1994年)

「琵琶湖」編集委員会編『琵琶湖その自然と社会』(サンブライト出版、1983年)

『琵琶湖総合開発100問』(滋賀県、1978年)

『滋賀県環境白書(平成15年版)』(滋賀県、2003年)