市民参加のベースとは

環境計画学科・環境社会計画専攻

環境政治経済大講座

土屋正春

1.「分権の時代」への二つの視点

 研究に関係する面では「市民参加とは何か」で開けて暮れた一年間であった。すでに長い期間をこのテーマに注いでいるのだが、先が見えないというか、続けるほどにゴールが遠ざかるかのような感がある。

 このことは、いろいろな意味で現在が過渡期にあることの現われなのだろうが、「分権の時代」が声高に叫ばれれば叫ばれるほど遠ざかるように思えてならない。自治体関係者が叫ぶ「分権の時代」と、市民団体などが叫ぶ「分権の時代」との間には深い溝がある。叫ぶ相手の向きが違うとでも言うのだろうか、同じ言葉を叫んでもその次のシナリオが違うのだ。地域のあり方について自治体がより主体的に取り組むべきだというところまでは同じなのだが、「市民の機能」、あるいは「市民の役割」を巡っての見解には大きな差があると言うべきなのだろう。

2.描きすぎたプログラム

 大阪のある自治体でのことなのだが、担当課の方が地域の環境計画を参加型で策定したいとして相談に見え、策定過程についての大体の構想を聞く機会があった。説明が終わるなり、これは行き詰まることになると私は先方に述べたのだが、その際に理解は得られず、その後は実際に行き詰まったままでいるのが現状なのである。

 行き詰まると考えた理由は、行政側の構想が余りに詳細な策定プログラムを描きすぎていたことにあった。しかし、ここまではよくあることなのだ。このケースでの問題の核とも言える部分は参加する側の市民の意向が反映する機会がまだないままにプログラムの実施内容で市民が何をするのかが描かれていたことにある。これは、行政にとっては市民の「実働」を確保することが「参加」の意味するところなのだという感覚の反映であると考えられるだろう。

 これに対して市民側が考える「市民参加」は、どのようなプログラムにするのかを意思決定する段階で市民の意見を反映させることだと理解されていることが圧倒的に多いのである。実際にだれが、どのように手を出すのか、この問題はそれから後の話だということになる。

3.時間に次ぐ要件は?

 行政側の姿勢には財政難が作用している面がある。つまり、事業費の節減を強いられていることから、できるだけ実施場面での住民の実働を期待したいのだが、そこへのリードが強すぎて、肝心の自治体と住民の基本的な関係をめぐっての納得できる思いを市民側に産み出し得ないままでいるのである。

 ここが先に触れた「溝」の原点なのだが、そのままの状況が続けば、結局それは強い行政不信を産み出すことになり、期待しただけの成果を挙げ得ていないプログラムは、その原因がここに求められることが多い。

 これまでも言われ続けたことだが、市民参加を行政の視点から構成される論理だけで把握し、しかも、たとえばこの冬から道路の除雪をしてもらいたいというように、事の運び方が拙速に過ぎる事例が多いことが、そうした結果になる。が、この点についての行政側の考え方には「住民の側に意識が足りない」という基本的な姿勢があることも作用して、溝は容易に埋まらない。実際には、なんとか形を整えて委員会を閉じ、新たなメンバーで再出発をするという例も多いのである。こうした方法をとっても、溝そのものがなくなるわけではなく、行政と住民との不安定な関係はそのまま続くことになる。同じことの繰り返し、の危険は大きい。

 うまく成果を産み出しているケースに共通しているのは「時間」をかけていることである。だが、それに次ぐ要件は何かになると途端に議論は拡散する。この点についての、それこそ参加型での研究組織が必要だと強く考えている。