環境学への日本建築史からのアプローチ

冨島 義幸

環境計画学科 環境・建築デザイン専攻

環境意匠大講座

はじめに

昨年4月に赴任しておよそ1年、大学での活動をつうじて、「環境」に関わる多くのことを学び、考えることができた。「環境学」の広がりに圧倒されるにいたったのも、また事実である。

あまりにも広大な「環境学」に対して、私自身がこの1年で学び、考えたことを整理し、今後の展望をさぐる意味でも、私が専門とする日本建築史という分野から、「環境学」をどのように考え、どのように取り組んでいくのかを述べてみたい。

□これまでの取り組みから

これまで私は、日本の古代・中世の仏教建築を主たる対象として、建築史学という分野で研究に取り組んできた。建築史学が、歴史学の他の諸学と大きくことなる点、いわばもっとも特徴的な点は、「空間を読み解く」ところにある。

寺社の研究では、現存する建築の調査でフィールドワークをおこなうこともしばしばあり、都市の中の寺社、集落の中の寺社、ときには険しい山の中の寺社など、寺社の立つ環境をみてきた。平安時代後期には平等院をはじめ、周辺の豊かな自然環境との関係のもと、建築が庭園と一体になってたてられる事例が数多くみられる。こうした寺社建築をみていくなかで、それをとりまく環境との関わり、あるいはこうした環境を生み出し、維持してきた理念に興味をもっている。

またその一方で、都市史の研究にもたずさわったことから、都市をどのように建設したのか、その建設資財はどのように調達したのか、あるいは都市環境の維持のためにどのような方策がとられていたのかなど、人間の生活環境としての空間を歴史的視点からとらえることにも関心をもっている。


□建築史学からのアプローチ

次に、日本建築史から「環境学」にどのようのアプローチが可能なのか、具体例をあげて述べてみたい。

建築資財の再利用

平城宮朱雀門の発掘調査で、藤原宮で使われた瓦葺が大量に発見され、新都(平城京)造営にさいして旧都(藤原京)の瓦を搬入していたことが明かになった。長岡宮の造営にさいして、難波宮の建築や瓦を持ち込んでいたことも知られる。元興寺の本堂・禅室の屋根には、現在でもその一部に、飛鳥から運ばれた古瓦が葺かれている。かつての日本では、建築資財の再利用はごく当たり前のことだったのである。

また、日本の神社で、ある年限ごとに社殿を新しく建て替える、式年造替がおこなわれていたことは周知のとおりである。伊勢神宮などでは、式年造替で発生した旧社殿の部材が、全国の神社にわたり、再活用されていた。春日大社については、社伝・形式・規模などから、春日の旧社殿と認められているものが、奈良・京都を中心にいくつもある。式年造替という制度は、新たな社殿に建て替えることそのものだけでなく、建築資財あるいは建築そのもの再利用という側面からも、日本の建築文化として興味深い。

建築の移築・転用

日本建築の歴史をみていくと、こうした移築・転用の例は枚挙に暇がない。

例えば現在の唐招提寺講堂は、平城宮朝集殿という政務のための建築を8世紀半ばに移築、改造して仏堂にしたものである。京都府の南端にある浄瑠璃寺の三重塔は、京都一条大宮から移築したもの、滋賀県の事例でいえば、竹生島の都久夫須麻神社本殿や宝厳寺唐門は、豊臣秀吉の豊国廟から移築したものと伝えられる。近年、私が取り組んでいる調査研究から例をあげれば、加賀市橋立町の北前船主の大規模な屋敷は、玄関・座敷・離れなどにわかち、それぞれ加賀市街や金沢の旧武家屋敷地などに移築されている。

日本の伝統的な木造建築は移築・転用が可能であり、こうした活用が一つの日本の建築文化となっていた。現代の歴史的環境の保存という点からは、かならずしも移築が最善の方法とはいいきれないが、こうした日本の建築文化は「環境学」を考えていくうえでも注目されてよいであろう。

□「空き家の建築史」?

この言葉は、現存する古い建築の様式や歴史的な評価を主たる課題とし、建築だけに目を奪われた建築史学を批判した言葉であるが、近年では建築によってうみだされる空間を対象とした研究も盛んである。古代から中世の寺院建築を例にあげるならば、仏教儀礼の分析をつうじて、伽藍や建築の空間がどのような社会組織を背景として成立したのかを探求する研究、安置する仏を検討することで、建築・伽藍の空間がどのような宗教的な理念(宗教的世界観ともいえる)からうまれたのかを探求する研究などである。

こうした研究は、建築そのものだけでなく、建築をとりまく環境、さらには社会的背景、宗教的理念をもふくめた視野をもつという点で、環境学としての展開の可能性を孕むであろう。現代のわれわれに宗教はあまり関係がないように思われるかもしれないが、自然観などの環境と関わる日本人の意識として重要な意味をもっているのではないかと考えている。

□「環境」という空間、その思想

山林の維持は、日本の木造建築の文化を支えるうえでも重要な課題であった。先に述べたとおり伊勢神宮では式年造替がおこなわれ、大量の良質の木材が、およそ20年という、木の成長からみれば短い周期で必要とされた。伊勢神宮では、古代から内宮正殿の造営の木材をえる杣山は、宮山たる神路山に限られていた。しかし、14世紀になると神路山の良材を取りつくしたため、杣山を他所にうつすことになった。鹿島神宮では、式年造替の木材を宮のほとりの閑地で栽培していたという。

里山は人間の生活と密接に関わって維持されてきたが、近世から近代にかけて身近な山林には興廃したものも多かったことが知られる。これにたいし、神社の神体山や寺社林など、神域として特殊な意味付けをされたものは人間の侵入を抑制でき、今日でもひときわ豊かな緑をたたえている。

天長3年(826)、空海は東寺五重塔の造営のための木材を「東山」から曳くことを上奏している。しかし、この木材に伏見稲荷の神木があって、淳和天皇が祟りを受けるという事件がおこった。こうした「祟り」という宗教的理念にあらわれた自然観は、日本の環境理念を考えていくうえでも重要な意味をもつであろう。

おわりに

「環境学」においても、普遍性をもつ広い視野と地域性・個別性に注目した視点の双方が必要であることはいうまでもない。ここでとりあげたものは、日本人と環境との関わりを示す事例のごく一部である。こうした、われわれの生活環境をめぐる一つ一つ過去の事実の探求と、小さくともその確実な蓄積、それらの体系化こそが、日本建築史あるいは都市史という分野から「環境学」にたいしておこなうべきアプローチの一つであると考えている。日本建築史の特性をいかした、個性ある「環境学」をおこなっていきたいと考えている。