津田内湖再生にむけて

柴田いづみ

環境・建築デザイン専攻

●プロローグ

 滋賀県立大学に赴任して7年目、去年の4月に琵琶湖のほとりに引越し、目の前に湖の日々変化する様を見ながらの生活が始まりました。「滋賀にいるのだったら、琵琶湖のほとりに住みなさい」と薦められ、琵琶湖のほとりだけが、滋賀の良い場方所というのではありませんが、私のフィーリングには合っていたようです。

 波の音や鳥の羽音、琵琶湖の三つの島々、夕暮れの比良山系や琵琶湖の空一杯に広がる夕焼けと滋賀に住む方々にとっては当たり前の事かもしれませんが、東京とパリにしか住んだ事のない都会っ子の私には、すばらしい体験です。

●環境フィールドワーク

 滋賀県立大学の環境科学部では、環境フィールドワーク(FW)が特徴です。環境と言っても多くの分野があり、水の保全を考えても、理学的な水質から水面の景観、ゴミをめぐる個々の住民の生活の改善までの総合で考えなければなりません。

 お互いの意見の相違や問題点の開示は「持続可能な社会」を考える上では、必要不可欠な事です。特に次の時代をになう世代には、それらの調整者としての方法論も収得してもらいたいと思います。

 FWでは、専門を越えて複数の教員と学生がグループを作り、地域の環境問題の把握、解析、総合的理解、提案をしていきます。

 FW2のAグループでは「まちづくりと環境情報」というテーマで、近江八幡市の津田干拓地を選び、FWをすすめてきました。環境・行政・農業・漁業・都市計画・交通・社会etc. と多くの問題点を含んでおり、FWの対象地として格好の場所でした。

 学生達には、現地を探索し、最初の印象をグループでワークショップによってまとめ、発表してもらいます。その後、ヒアリング会、エコ・ロール・プレイ、ワークッショプと授業を進めていますが、2000年から公開として、興味を持っていただける方々と知識や情報を共有できるようにしています。ヒアリングは、地元で営農を続けている方、行政として関わられてきた方、海外での事例をご存知の方等に、学生達が事前ヒアリングを行い、来場者用の資料づくりをします。それらの、公開用のポスターづくり、会場係、司会も学生がそれぞれ担当します。

 1997年度の終わりには、農地としての有効利用と同時に内湖に復元する案までが学生から提案されました。年を経る毎に内湖に対しての有効性や感心が高まり、現状では、復元は難しくても、機能を再生したり、水面を創造する意義が論議されるようになってきています。それには、自然生態系調査と同時に、社会学的・計画学的な合意形成手法が大きな課題となる為に、将来を担う学生達には、その手法も学んで欲しいと思っています。

 公開ワークショップ2001年では、現在検討されている1 haの実験湖の作り方、2002年では、津田をもっと知ってもらうためのイベントづくりをいたしました。以下がそれぞれの班のイベントテーマです。

・・・I班:津田の空で散歩、II班:津田干まるかじり、III班:ねいちゃああーとinつだ内湖、IV班:津田リンピック・・・

●津田内湖

 かつて、琵琶湖のほとりはクリークや内湖と呼ばれる湖沼が広がっていました。内湖の機能を人に例えるならば、子宮であり、腎臓・肝臓などの内蔵であるといえます。津田内湖は、先に干拓された大中の湖と西の湖からの水を溜めて琵琶湖に注ぐ、めずらしい二段階の内湖としての自然生態系水路を形成していました。さらに、西の湖から北の庄を通って八幡堀として市街地を通過した後に津田内湖に続く水上交通路として、また市街地背割り排水に端を発している下水計画上の人工水路の結節点として多くの機能をになっていました。

 琵琶湖総合開発には「利水、治水、保全」の3本の柱があります。保全の中には「水質保全と自然環境保全・利用」が入っています。「10年をかけた琵琶湖総合開発が終了し、振り返ってみると利水、治水についてはかなりの成果をあげているといえます。しかし、保全についてはどうでしょうか」これは公開ヒアリング会にお呼びしたパネラーの方の意見です。

 現在、政治・経済を問わず、過去の見直しが課題となっています。滋賀県の面積の1/6を占める琵琶湖にとっても、一つの段階を経た後の見直しが、特に環境面が必要なのではないでしょうか。

 人間にとって親水性は増したと言えますが、鳥や魚、植物、昆虫や水辺の風景、水質にとってはどうでしょう。どこかで補完する必要があるのではないでしょうか。また、琵琶湖全体の現状を考えた時、水質は定常的に悪化をつづけており、また水産業の衰退も激しく、これらも内湖機能の再評価の背景といえます。

●津田干拓地

 津田干拓地もかつては津田内湖でした。長命寺川の河口に位置していますが、長命寺川は、内湖の水面が干拓された時に残された水面といえます。干拓前には内湖として、多くの機能と景観を提供し、人々の生活と共に生きていました。

 多くの内湖がそうであるように、戦後の食糧難の時代に干拓が決定され、1971年に干陸が完了しました。しかし、1969年、国の減反政策が決定された事から、目的を失った津田内湖の悲劇が始まりました。水田を想定した土地に畑作を行う事により、連作障害もおき、高齢化に伴い後継者もいなくなり、放置される土地が目立つようになりました。さらにバブルの時期にはマリーナ、その後は汚職に発展した農業公園とプロジェクトが作られては消えていきました。

 津田干拓地の現状は、放棄されている農地が目立ち、農家の高齢化も進み、地権者の75%が農地をできるだけ早く手放したいと希望している現実があります。

●「内湖復元研究会」と「津田内湖を考える市民会議」

 2000年、6月、近江八幡市の「内湖復元研究会」(委員長:琵琶湖博物館 川那部館長)によって、内湖再生の問題点が検討され、会議録から再生に向けた活動を大きく分けるとと3つの課題が提出されています。

(1)干拓地に水を入れたら何が起こるか。(2)かつての津田内湖はどのようであったか。(3)対照区として西の湖のデータをとる。

 2000年の8月には「津田内湖を考える市民会議」(事務局、(社)近江八幡青年会議所)が発足し、具体的にこの津田干拓地を内湖に復元する可能性を行動の中から見つけていこうという状況になっています。

 自然生態学的、人文社会学的な事前調査に加え、そこに生態系が戻ってくる過程の継続観察及び、復元後の維持については、研究者、住民、行政、産業の協同体制が不可欠です。市民会議は、その要になる組織といえます。

●近江八幡津田内湖リサーチ・コンプレックス(OTRC)

 2001年5月、鳥や魚、昆虫、植物、水質、景観、文化・風習、合意形成、環境経済、土地利用などを総合的に現状調査し、実験湖づくり、経過調査と進めていく「近江八幡津田内湖リサーチ・コンプレックス(OTRC)」が作られました。復元・再生といっても、昔と同じ生態系が戻るわけではありません。この組織では研究ばかりではなく市民と提携して、環境教育、農業問題、漁業問題も検討しながら津田内湖再生後の地域将来像も作っていくのが目標の一つになります。つまり、すでに立ち上がっている「東近江水環境自治協議会」「西の湖美術館」「近江八幡ロータリークラブ」「市立岡山小学校」その協力や行政としての市・滋賀県との協力が必要となってきます。

・OTRCテーマ:「内湖機能再生と水系ネットワーク構築による先導的地域環境モデルの開発」

目標:湿地保護ラムサール条約を締結した琵琶湖岸の津田干拓地とそれにつながる水系一帯に対して、現状把握調査を実施し、同内湖水系ネットワークの再生保全計画を立案をするため、市民参加による住民の合意形成・意思決定を通して当地域に特徴的なヨシ群落等の自然植生を利用した豊かな自然環境の回復を図るとともに琵琶湖の水質改善とヨシ等の産物を生かした文化・産業を再生し、地域環境モデルの構築に関する研究を行ないます。

 地域を交えた学際的な研究チームとして遂行することによって、新しい水環境再生のための研究者ネットワークを形成、さらに経済的に破綻している津田干拓地を、単に内湖に水面再生するだけではなく、水系リンク全体を構想し、魚の産卵繁殖場の再生等の漁業への貢献も期待でき、農業もグリーン・ツーリズム及びエコ・ツーリズムを検討調査する事により、次世代、循環型地域経営として考えていきます。

 さらに、建材として、またバイオマス発電のペレット生産を手始めに、ヨシの産業としての新規事業としての可能性を考察し、環境教育自体のモデルも地域経済の活性化にも寄与できるものと考えられます。

 [OTRC]は、日本における湿地復元、水環境再生の先端研究事例となることから、これら事業ならびに研究の今後の推進に資し、滋賀県においても、マザー・レイク構想をはじめ琵琶湖周辺の湿地環境創造がうたわれている為、今後の内湖を考える試金石となる研究と位置づけられています。

 滋賀県立大学環境科学部フィールドワーク(FW)としては、現地での調査・ワークショップを継続しています。そこで、歴史的経緯、住民の意見交換がなされている一方、環境科学部教員の調査により、水を流入しても残留農薬の溶出がないことが解っています。

 さらに、[OTRC]の実験地においては、現在、植物グループが先行実験中で、実験予定地の土壌を約4m掘削し、土壌断面調査、花粉調査、発芽実験が進められています。その土壌の一部は、地域の小学校に分けられ、環境学習の一環として、「小学生による発芽実験」が始まっています。

 「民・官・産・学+子ども達」の連携によって何が生まれるかが楽しみです。

●エピローグ

 滋賀県立大学が開講したのは、1995年の4月、1月17日に阪神・淡路大震災のあった年です。当時兵庫県の都市計画の委員をしていた私は、大津市の県庁での大学開設会議の翌日は神戸での会議という日程が、続いていました。

 1月16日も大学開設会議があったのですが、その翌日のいつもの神戸での会議が無く、日帰りで東京に帰って来ました。そして、17日の朝、地震のニュースに驚くと共に、ほんの少しのタイミングの違いにびっくりしました。

 代替バスが開通し、大阪から2時間かけてたどりついた三宮のマスクが離せない状況は、人々の記憶にまだ焼きついている事と思います。建築家として災害に強い建築や都市を創る使命を教えられたのと同時に、大自然の大きな営みを実感させられた出来事でした。

 翌年の1996年、赴任した秋、初めて津田を訪れました。放置された畑が目立った干拓地への提案が始まった時でした。人間がしてしまった事をもう少し自然に近づけるように、時計を反対に回す作業も必要なのでは無いでしょうか? どうしてもかなわない大自然にたいして、ほんのわずかの試みにしかならないかもしれません。でも、第一歩としての意味は大きいと思います。

 今年、8月3日、内井昭蔵先生の逝去は、大きな穴がぽっかり開いたような出来事で、いまだに信じられません。建築界にとってもですが、滋賀県立大学の創世記に「環境と建築」という概念を創られた先人として、隣の研究室の先生として、「建築領域」という大学院のプログラムを一緒に指導してきた同僚として、一つ一つの言葉が、大きな重みを持って思い出されます。いつかはたどり着く死を、そこに至るまでにしなければならない事を、深く考えさせられた夏でした。紙面をお借りして、内井先生のご冥福をお祈りいたします。

 そして夏がすぎ、久しぶりに帰ってきた琵琶湖のほとりの我が家のバルコニーには、野バトが巣を作っていました。ハトも今や迷惑鳥ですが、「窮鳥懐に入れば、漁師も殺さず」です。餌はやりませんが、自然にまかせて見守ることにしました。もしかしたら、この土地は彼らのものだったのかもしれませんし。しばらくして、雛が孵り小さな命が生まれました。琵琶湖を見ながら、大自然の中の生と死とを大きく受け入れる事にしました。


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■エコ・ロール・プレイ(明日の淡海 2号から再掲)

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エコ・ロール・プレイ、役割シート学生編

あくまでも仮想の役割を学生各自設定している。

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●役割シート例その1

名前:開発業者(B)

年齢:25歳

職業:株式会社<デイベロッパー滋賀>社員

家族構成:独身

住所:守山市で一人ぐらし

現状:津田内湖干拓地にゴルフ場つきのリゾートホテル建設計画をたてている。平和不動産営業主任である地上げ屋岸谷五郎を手足として使い、資金源としてゴルフ場の社長王麗と手を組んでいる。

○エコ・ロール・プレイ後の感想

ゴルフ場社長役のSさんが、なにより誰よりもなりきっていたのがよかった。お金を持っているとどんなに強いか感じさせてくれた。

●役割シート例その2

役割:環境保護団体(近畿琵琶湖の会)

氏名:河村 賢造

年齢:42歳

職業:小学校教師

現状:学校の道徳の授業では、環境について語り出すエコ熱血教師。環境保護団体のリーダー的存在。弱点は、正しい事が、世の中全て通るのだと思っている事。強引な所があり、相手を傷付けてしまう事もたびたび。自分でも気持ちを正確に相手に伝わるよう気を付けなければならないと思っている。嫌いなものは、政治家。

○エコ・ロール・プレイ後の感想

誰かがどこかを譲らない限り、自分の主張を通し続けると話はまとまらない。道徳的な問題が大きな焦点となるだろう。最初はスローペースで始まったがだんだんみんなのテンションもあがってきて、面白くなってきた。もう1度やれば、もっとレベルの高いものになるに違いない。全員知識をもっと付けて参加するべきであったと思う。

内湖復元の圧倒的勝利に終わると思われたエコ・ロール・プレイだったが、以外と説得は難しく、実際もこのように説得が難航されると予想される。一見正しそうな事が、全て正論で、それが、通用するとは限らない。

●役割シート例その3

役割:近江八幡市民

氏名:淡海 蜂子(おうみはちこ)

年齢:34歳

家族構成:夫、義父、義母、子供2人(9歳、7歳)

生まれも育ちも大阪で、近江八幡に住むようになったのは10年前。最近、やっと琵琶湖に愛着がわくようになり、琵琶湖が汚いのに苛立ちを覚えている。また、日々の生活が苦しいのは不景気と市の行政のせいだと思っている。通勤途中にいつも津田干拓地を見ていて、間違った土地利用法だと思っている。今後の津田干拓地をどうするのか、市民(納税者)として、市の考えを聞きたい。また、本人はとくにどうしようという考えはない。

○エコ・ロール・プレイ後の感想

内湖復元が一番良いと思うのは変わらないけれど、本当に内湖にもどすとなると、どうか、とも思う。土地所有者(農業をしたい人)のことをもっと考えたほうが良いと思う。

●役割シート例その4

役割:南津田の住民

氏名:北嶋一範

年齢:35歳

職業:サラリーマン

家族構成:見合い結婚の妻一人、5歳の息子が1人。典型的な核家族。

現況:学生時代は常にエリートクラスを進み、京都大学工学部卒。その後、任天堂京都支社にトップで就職。幼いころから、今日に至るまで何の支障もない生活を送り、夫婦仲は円満(?)。毎日、朝早くから夜遅くまで出社のため、家に居るのはせいぜい日曜くらい。嫁さんが今流行の環境問題に関心が高く、よく話を持ち掛けられるが、私は新しいゲームソフトの開発で頭がいっぱいである。津田干拓地のリゾート開発の話も耳にしたが、週一回の家族サービスに利用できるものであれば、まあ賛成かな。遊園地にでもしてくれれば便利なのでは。

○エコ・ロール・プレイ後の感想

干拓地問題は土地所有者に限る問題ではないので、やはり土地所有については、金銭の問題だけでは解決不可能であり、市において、住民単位の会議を開き市全体で(この規模が一番適切)、これについて決断する必要がある。このエコ・ロール・プレイの最後で出た話のように周辺住民(市内)の意識調査などの回数を重ね、随時話し合いの場を持つ事のできる場を設けることを市に要請すればよいのでは。

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エコ・ロール・プレイ、役割シート教員編

遊び心の例でもある。

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●役割シート教員編その1(環境社会計画専攻助教授井手慎司)

役割:魚の霊

氏名:カラシウス・オーラタス・グランドカリス

年齢:1505歳

職業:天上界 動物界脊椎動物門硬骨魚綱コイ目コイ科ニゴロブナ指導霊

住所:天王星

家族なし

 我が輩の前世はニゴロブナである。かつては琵琶湖に棲み(1)、沖島周辺や津田内湖、大中湖などを縄張りにしていた。といっても、もうかれこれ千五百年くらい前の話である。

 我が輩の自慢の一つは、日本で初めて鮒ずしになったということである(2)。ほかにもコイや他の雑魚たちと一緒に漬け込まれたが、やっぱり、我が輩が一番美味だったとみえる。それ以来、琵琶湖のナレズシと言えば、ニゴロブナに決まっている。(もっとも、あの広辞苑ですら、鮒ずしの材料を間違って「ゲンゴロウブナ」と書いていた時代もあったそうだ。大変、失礼な話である。)

 ただし、鮒ずしにして食べられたからといって、別段、人間を恨んでいるわけではない。そもそも我が輩は、霊は霊でも、指導霊である。決して、地縛霊や動物霊など、何かに取り憑くような低俗な憑依(ひょうい)霊の輩ではない。霊界の更に上の天上界に鎮座する最上位の霊だと考えてもらいたい。現世の肉界を離れてから、幽界で約千年間の禊ぎを勤め、さらには霊界で三百年の修行をおさめて天上界に昇ってきた、エリート中のエリートである。

 我が輩の主な仕事は、幽界や霊界に暮らす元ニゴロブナたちの世話である、地獄界や魔界へ堕落しないよう、彷徨える浮遊霊などになったりしないように指導して、ニゴロブナとして現世に転生させるのである。ちなみに言い添えておくが、ニゴロブナは生まれ変わってもニゴロブナである。どんな生き物だって、同じ種の生き物として生まれ変わるのが原則だ。もちろん、他の生き物に生まれ変わる場合も無いわけではないが、あくまでもそれは例外としてである――そう、少なくとも百年くらい前まではそうであった。

 ところが最近、そんな輪廻転生の約束事が狂い始めている。幽界や霊界の動物区の人口が、この百年で急激に増加してしまったことが原因だ。昔から一年のうちに現世に戻れる動物の数はほぼ決まっている。それなのに、ここのところ、めちゃくちゃな数の動物たちが幽界にやってくるのだ。

 ところが、幽界や霊界でも人間区だけは特別で、逆の現象が起こっている。理由はよくわからないが、人間として転生していく霊の数が加速度的に増えているそうだ。

 かなり前から、霊界の人間区はからっぽである。早晩、幽界のほうも空っぽになるだろうと言われている。だからここ数十年は、天界の都市整備の一環として、動物区から溢れた元動物たちを、せっせ、せっせと人間区に移住させている。このため、すでに人間として生まれ変わった動物たちもかなり多い。我が輩もかなりのニゴロブナを人間として生まれ変わらせてきた。もし、あなたの周りに、琵琶湖の保全に熱心な人がいたら、ひょっとしたら、その人はニゴロブナの生まれ変わりなのかもしれない。

 今回、我が輩がこの場に現れたのは、元ノゴロブナであるところの某人物が元気にやっているか、様子を確かめるためである。ひょっとしたら、その人物のすぐ横には、タヌキやキツネの生まれ変わりが座っているかもしれない。そのときは、元ニゴロブナがそいつらに騙されないよう、影ながら守ってやるつもりだ。そう、指導霊は守護霊でもある。 (1) ニゴロブナは琵琶湖の固有種 (2) 鮒ずしは、古くは中国雲南省あたりにルーツをもつナレズシという発酵食品の技法が、ちょうどその当時、大陸から日本に伝わってきたものらしい。

●役割シート教員編その2(現在、京都工芸繊維大学教授、当時、環境建築・デザイン専攻助教授石田潤一郎)役割:環境保護運動家

氏名:隅田川一乱(すみだがわ・いちらん・・・元ネタわかるかな)

年齢:46歳

経歴:1952年生まれ。もともと昆虫採集が好きで大学では生物学を学ぶ。卒業後、高校教師となるが、害虫駆除の問題から農業のありかたに関心をもつようになり、27才で農学系の大学院に入りなおす。入学後、おりしもヨーロッパで盛んになってきたビオトープ、および自然環境の復元という課題に触れ、農学と生態学の中間領域をターゲットとすることを決意する。とはいえ、こうした分野を職業とすることはむつかしく、ようやく1990年に財団法人日本自然保護協会研究員のポストを得る。

住所:山梨で生まれ育ったが、大学入学以来、首都圏で過ごしてきた。3年前に湖西・仰木地区の棚田保存の問題に着目し、協会の関西本部に移る。住まいは京都市内だが、滋賀県には頻々と足を運ぶ。

家族:院生時代に静岡県三島市の河川多自然化事業に都市プランナー事務所の嘱託として参加したとき、同じ地域の民俗調査に来ていた女子学生と知り合い、やがて結婚する。オーバードクター時代は中学校の教員となった妻のヒモ状態で過ごす。就職後、あわてて子供を作り、一男一女。子供は完全に関西弁となっている。なお、妻は生活の利便性を第一義に考える近代主義者で、環境保護には冷淡。私の手がけている水田保全などは支持してくれるが、エコロジズム一般には否定的で、先日も『買ってはいけない』の受け売りをする同僚と大喧嘩したらしい。

 閑話休題。

 98年度のフィールドワークの報告書を読んでみて下さい。沖島の漁民の小川四良さんが内湖のすばらしい働き――魚類の生息、水質の浄化に果たす役割の大きさを熱っぽく語った一端がうかがえるはずです。

 自然の生態系を無視した現代文明に警鐘を鳴らす私たちは、じつにしばしば「それなら1人で原始時代に帰れ」と冷笑されてきました。しかしそう言った人々も、農薬の影響でとうとうメダカが希少種に指定されるにいたったり、除草剤のせいで公園からアリが消えてセミの死骸がいつまでも地面にあるといった事態に、気味悪いものを感じはじめているようです。生物的恐怖感が「いくらなんでも我々はやりすぎたのではなかったか」という反省をもたらしているのです。

 今にして思えば、琵琶湖にとって、内湖干拓は「いくらなんでも」といわれるべき所業でした。ニゴロブナやアユの減少はブラックバスやブルーギルのせいにされていますが、そんなものの何倍のものダメージを魚たちに与えてしまったのです。もとより沿岸の人間の生活環境にも。

 『あの金でなにが買えたか』という村上龍の本がベストセラーになっていますが、内湖復元の五十億円をほかの公共事業とくらべてみましょう。県立大創設五百億円は持ち出さない方が賢明でしょうが、彦根市文化プラザがたしか八十億、びわこホールが百数十億円、びわこ空港に至っては一千億円をゆうに超えているはずです。内湖復元の意味の大きさを思えば五十億円は実に安いものではないでしょうか。

 あの堤防を切る、そのことだけで、私たちは生物生態系と自然の物質循環の摂理の偉大さを目の当たりにできるのです。

--------------年表-------------------------

1919(大8)琵琶湖周辺の大小40余の内湖が干拓に最適地と認める(農商務省)

1943(昭18)戦時食糧対策の一環として琵琶湖対策審議会を設置

1944(昭19.4)農地開発営団によって干拓事業が正式に認められる

1952(昭27.3.30津田内湖地区干拓計画施行承認(大中の湖地区干拓計画に包括された申請)

1967(昭42.11.21)津田内湖干拓事業に着工(琵琶湖の内湖で最後の干拓)

1969(昭44.)減反政策への政策転換のため、農水省が干拓中止を発表

1970(昭45.5)畑への転換を決定。工事再開

1971(昭46.10)国営事業津田内湖干拓完成

1975(昭50)青田刈(ブルドーザーによる踏みつぶし)

1977(昭52)幹線排水路の拡幅、暗渠排水施設の整備

1978(昭53)暗渠排水及び揚水機ポンプの整備 畑作営農組合組織化

1979(昭54.4)津田内湖干拓地にし尿処理場(第1クリーンセンター)が完成

1990(平2.12.25) リゾート法による琵琶湖リゾートネックレス構想の重点整備地区指定

1997(平9)県立大学環境科学部のフィールドワークの案で、内湖再生プランが発表される

1998(平10)河川改修による土砂を受け入れ開始

2000(平12.6.8)津田内湖復元研究会の設立

2000(平12.8.27)「津田内湖を考える市民会議」の設立

2001(平13.5)近江八幡津田内湖リサーチ・コンプレックス(OTRC)設立