山岳ヒュッテの水洗トイレ

環境計画学科・環境社会計画専攻

環境社会システム大講座

奥野長晴

 山小屋の朝、食後、トイレ待ちの長い列、そしてポットンと悪臭‐‐思い出すだけでも身震いがする。1方、岩手県早池峰山では自分でウンチを持ち返ろう運動が始まったという。弁当の包装紙や食べ残しさえなるべく早く処分したいのが本音、「自分のオシッコやウンチを長時間持ち歩くなんて、絶対にいや。わたしは山なんてもう二度と行きたくない」と妻がいう。快適性を別にしても、汲み取りウンチを山に残したら、山岳環境が破壊するかも、この問題をほっと置くわけには行かないと考え始めた。こうして山岳ヒュッテの水洗化がここ数年の関心事になっていた。そしてこれをついに本年の卒論のテーマにしたのである。

 アルピニズムの先輩、スイスの山ではこの難題をどう解決しているだろうか、スイスで出来ることがなぜ日本で出来ないのか--この疑問に答えることに研究のスタートを置いた。2002年7月ツェルマット村へ出かけたのはこのような理由からである。マッターホルン(標高4478m)を盟主にして、ブライトホルン(標高4164m)リンプフィイシュホルン(標高4198m)、モンテローザ(標高4638m)など4000m級の山が林立している。あなたが山好きなら、これらの名前を耳にするだけで、震えがとまらないであろう。いずれも一生に一度は登ってみたい、いや眺めるだけでも、生まれてきたことを良かったと心の底から満足すること請け合いである。この山並みを南面の壁とするのがツェルマット村である。この村の定住人口は5,000人、それに対して、観光客は1日あたり15000人から20000人に達する。

 観光客をあてにして、村の周辺には標高2000mを越す展望台が数々あり、そこで売店やレストランはいうまでもなくホテルまで営業している。いずれも通年オープンである。ゴルグナート(標高3130m)、シュバルツ湖(標高2682m)など10箇所以上の展望台へは登山電車やロープウエーで簡単にアクセスできる。山岳ホテルのクルムはゴルナグラートにある。このホテルの歴史は古く1907年に開業、いまでも当時の雰囲気を残している。1日当たりの定員はわずか43名、しかも世界的に有名。これが災いして、ピークシーズン最中一泊するには1年前の約が必用とのこと。私も早速、ここにいってみた。そしてまずトイレに飛び込んだ。フル規格の水洗トイレが完備していた。

 ツェルマット村周辺のケーブルカーや登山電車でアクセスできる場所にはすべて公共下水道が普及している。(ただし一部分鉄道会社とホテルが共同所有の私設下水道管もある)。排水(トイレ汚水も含む)はすべて公共下水道に収容し麓の下水処理場で高級処理されている。飲料水もツェルマット村の公共水道から給水している。ゴルナグラートとツェルマット間の直線距離9Km(高低差1485m)を直径30cmのPVC製の下水管が繋いでいる。かくして、標高3130mという高所に位置しながら、ホテルクルムでは給水排水の心配なく、泊り客は都心並のサービスを期待できる。これが全世界から観光客が集まる所以である。ここなら妻も喜んでやって来ること間違いなしだ。

 ゴルナグラートに対応するもう一つの展望台がスネガ(標高2300m)である。ここの施設から流出す排水も公共下水道が引きうける。地下ケーブルカーの建設と同時に(1981年)に軌道敷に排水管を施工し、当時汚水はこれを用いて麓までおろし、フイスパ川に未処理のまま放流していた。1985年ツェルマット村に下水処理場完成後は、全量ここで高級処理をしている。

 ロープウエーが通じているにもかかわらず、トイレが水洗化されていない唯一の例外がクラインマッターホルンのケーブル駅(標高3884m)である。こでは氷河から突出した岩を水平にくりぬき、その内側にケーブルの駅舎、ビュッフェ、そしてトイレが設置されている。周辺が氷河なので、下水管が敷設できない。それゆえ特別のトイレを設置することになった。それはEMERGIE(インターネットで検索可能)と呼ばれるもので、1回ごとにプラスチックの袋が便器の中に自動的に設置され、用便がおわるとプラスチック袋の首の部分が結束される。その後、いわばウンチのソウセージが便器の下方に設置したコンテナーの中に落下する。1日の最後に、ロープウウェーでこのコンテナーをツュエルマット村へ運び、ごみと一緒に焼却する。

このトイレの一回当たり使用料は2スイスフラン(約150円)である。

 このように「観光客が訪れるところには安全な水を供給し、汚水は山岳環境から隔離する」がツエルマット村の基本姿勢である。「快適性と安全性の100%確保が環境客を呼ぶための基本中の基本である」をこのツエルマット村の実践が教えてくれる。下水道施設建設に対して、連邦政府からの補助金は一切ない。村自身の予算と受益者負担金で下水道事業を促進した。これが年間2,000,000人もの観光客呼び寄せ実現の理由の一つでもある。

 ところで、山岳ヒュッテのトイレはどうなっているのか?山岳ヒュッテは通常山奥に位置し、人間の足による徒歩でしかアクセスできない。(マッターホルンの肩も小屋ヘルンリーヒュッテまで、歩いて往復5時間かかる。)いかにスイスとはいえ、雲の上のトイレは簡易水洗タイプが多い。簡易水洗トイレでは一応フラシュはできる。しかし水量が少なく、汚物は処理をせずそのまま垂れ流すことを前提にしている。ヘルンリーの小屋もこのタイプの水洗トイレである。マッターホルンに登るにはここでの1泊が必須だ。標高3250mの高所の岩場に立つ山小屋でありながら、快適性を優先して、水洗トイレを設置したという。雪解け水をタンクに蓄えて、トイレのフラッシュに用い、汚水は小屋の裏側(北壁)に垂れ流している。モンテローザヒュッテ(標高2795m)もまったく同じである。

 この小屋の位置は氷河に近いので水には困らない。しかし汚物は氷河の間の小川に流している。ヘルンリーの小屋の収容人員は170名、モンテローザのそれはは150名、いずれも夏季4ヶ月間の営業である。いずれのヒュッテも定員はベッドの数できまる。だから予約なしではまず宿泊不可である。こんな有名なヒュッテであるにもかかわらず、1日当たり宿泊人数がこのように極めて少ない。白馬山頂小屋の収容人員は1000人、夏のピークには5000人が宿泊するという。

 ヘルンリーの小屋もモンテローザの小屋も、人数的に、白馬のそれとおよそわけが違う。収容人がこのように僅少なので、トイレの汚物をたれ流しても、たかが知れている。

 しかもそれぞれ標高3250m、および2795mという高所なので付近に植生がない。だから環境に悪影響ないという。(しかし、ヒュッテブルタニア(標高3030m)のように汚物をヘリコプターで1シーズン2回搬出しているところもある。)ヘルンリーの小屋でもごみはヘリ輸送である。登山の大衆化に山小屋がどう対応するかがツェルマット村の今後の課題であるとのことであった。

 4,5泊かけながら徒歩でモンブランを1周するコースとして、ツルードモンブランが日本でも注目され、日本からの参加者も増えてきた。このルート上で、スイスとフランスの国境の峠に位置するバルムの山小屋(標高2067m)では、調理はすべてペットボトル水を使用、水洗トイレが完備。その用水は雪解け水がたまった沼からはサイホンで取水、汚水はタンクにため4輪駆動車で麓の下水処理場まで運んでいる。(ツルードモンブランでも山小屋の事前予約は必須である。予約なしで現地に来てから泣きつく日本人の数の多さにシャモニーの環境案内所は悲鳴をあげていた)

 スイスの山小屋が予約定員を厳守することにより、結果的に登山者の総量規制が実現し、その結果簡易水洗というプリミチブな装置でありながら、快適性と環境安全性が確保できている。翻って、日本の山小屋では来る人を拒まずの精神に立ち、悪く言えば見境なく客を受入るために、巨大な施設が必要になる。バイオトイレなどハイテクを採用しても、水なく電気なく敷地ない山の頂上で5000人規模の宿泊客に対応しようとするのが始めから無理というものである。日本の都市問題の縮図を山小屋のトイレにオーバーラップして見た思いがしている。

(この小文を書くに当たり、ツェルマット村広報官、トシミ・ブルナーさんから多くのこと教えていただいた。それに加えて本文のリビューまでお願いした。彼女の協力に深く感謝している)