どう描く21世紀前期の日本のパラダイム

1.どん詰まりの袋小路

 通貨操作の手段を使って解決を図ろうという新古典派の経済政策も、財政や金融の手段を使って解決を図ろうというケインジアンの経済政策も有効性を失ったかのようにみえます(財政は大赤字、ゼロ金利で行き着くところまで行ってしまっている)。マクロ経済政策もほとんど使えなくなっている、それならば構造改革しかないではないか、という流れのなかに小泉内閣の構造改革は位置づくものとみなければなりません。中身がわからないと言われ続けてきたこの構造改革ですが、どうやらそれは、中小企業の淘汰(日本経済が抱えている過剰生産、過剰設備を、非効率な中小企業淘汰で解決しましょう)と社会福祉(医療・年金・介護・雇用保険)の削減・増税の国民の負担増加(社会保障で2兆7千億円、増税で1兆7千億円。平成15〜17年)というものであることが、国民にもうすうすわかってきたというところではないでしょうか。

 ところで、構造改革をさかのぼってみていきますと、実はそれは、1985年のプラザ合意にまで行き着くことになります。つまりそれは、輸出依存型産業構造の転換、円高合意を言ったわけです。やがてそれは、1990年代の海外進出、産業の空洞化、内需拡大のために10年間で630兆円の公共投資ということにつながっていきました。しかしこれも結局は、経常収支の縮小(不均衡の是正)ももたらさなかったし、内需拡大も進めませんでした。かくして現在は、マクロ経済政策もとれない、構造改革も進まないという袋小路のどん詰まりにきてしまっている、というみなさん周知の今日の状況があるわけです。そこで当然、小泉内閣の構造改革、プラザ合意のいう構造転換に変わるべき、あるべき構造改革は何かが問われることになります。

2.オルタナティブはありますか

 マクロ経済政策の如何にかかわらず、構造改革の如何にかかわらず、21世紀前期におけるわが国の経済社会のありようは「経済ゼロ成長」社会であるべきでしょう。もちろんこれは、既存の経済成長率でとらえたそれは、という限定付きです。税金の使い方を大型公共事業にではなく、社会保障、教育、研究、医療に振り向けて、人間がゆとりをもって豊かに暮らせる21世紀型の成熟した経済社会の形成へ、という方向転換です。これがあるべき第一の構造転換です。ここでは言うまでもなく、経済成長ゼロのもとでの雇用が確保される社会の実現、高齢化社会(少子化社会)のもとでの高齢者傷病者を出さない長寿国の実現等々が重要課題としてあります。

 第二に、貨幣・金融で肥大化したカジノ資本主義の実体経済を足場にすえた経済への転換を図る課題です。それは、80年代以降のアメリカ型の株主のための社会(ストックホルダーカンパニー)からEU型の株主だけでなく顧客、従業員、関係会社等利害関係者に配慮する会社(ステークホルダーカンパニー)への転換、あるいは、アメリカ型略奪資本主義(ヘルムート・シュミット元ドイツ首相)ではなくEU型資本主義の選択とも言えます。トータルとして言えば、ルールなき資本主義をルールある経済秩序に転換させる構造改革ということになります。

 経済ゼロ成長社会、しかし人間がゆとりをもって豊かに暮らせる21世紀型の成熟した経済社会、一定のルールで調整された経済秩序をもつ資本主義経済社会、さらには、第三に食料の安全保障が確保された経済社会、第四には地球環境の保全をめざす経済社会の形成と、いくつかの目標となる経済社会像をあげることができるのですが、いずれにしても、これらの新たな経済社会を具体的に創り出していく政治システムとして重要になるのが分権型経済社会のシステムであり、空洞化論を越えたアジア地域連携社会のシステムであると考えます。前者を国内システムと呼べば、後者は国際システムということになるでしょう。

3.国際化について再考する

 そこでもう一度、国際化について考えてみないといけないという気がしてくるのです。ただチープ・レイバー(低賃金労働)を追い求めて行くだけの海外進出という「貧困の国際化」でいいのか。はたまた、保守的な「閉鎖的一国主義」の立場で、ただ「忌まわしい国内産業の空洞化」だけを言っているだけでいいのか。この両極にある代表的な見解を一刀両断したときに見えてくるものは何か。

 一つには、アジアを豊かにすることこそが最大の空洞化対策であるという考え方があっていいと思います。海外進出は自分の企業の利益をあげるためではなく、相手国の利益になってこそ成功したといえるということ。現地化に成功するということが、実は日本の親会社には直接のメリットは何もないということ。世界中が豊かになるという発想から自分たちの生活や企業活動を再構築する必要がある、という発想が重要であることには間違いないのですが、しかしながら、企業を誘惑する「安くて豊富な労働力」の危険な魅力には抗しがたく、堤清二氏が言う、相手国についついいつまでも「安くて豊富な労働力」を求めてしまう、相手国の生活水準をできるだけ低めようとする圧力を内包する「見えない帝国主義」の危険といつも同居している自分をみつめ続けなければなりません。1)

 それでは、世界中が豊かになるという発想から自分たちの生活や企業活動を再構築する必要がある、という発想に立って、私たちはどのような国内産業の立地を構想すべきなのか。それが私たちに残されたもう一つの道です。一つのサジェッションは、地域需要に根ざした地域産業型ものづくり・サービス(用益)づくりということになるでしょう。それは具体的には、「福祉=産業」、「環境=産業」、「アート=産業」、そして第一次産業(農林水産業)に注目するということになるでしょう。地域マーケット型企業の育成・輩出、地域マーケット型産業の振興という課題が国策としても、自治体の産業政策としても非常に重要であるということになると思います。

注1) 堤清二『消費社会批判』岩波書店、1996

4.「逆上がり」展望で見えてくるもの

 このように、国際化の視点で見てこそ、逆に、分権型経済社会、地球環境の保全をめざす経済社会、食料の安全保障が確保された経済社会、一定のルールで調整された経済秩序をもつ資本主義経済社会、そして21世紀型の成熟した経済社会を形成することの必要性・可能性が、素直なシナリオ、無理のないストーリーとして見えてくるような気がするのです。

 大切な紙面をお借りして、このようなことをつらつらと書き綴ってきたのは、21世紀におけるわが国大学のあり方、第一次産業(農業、林業・水産業)のあり方等々を検討するには、当然のことながら21世紀前期の日本社会のパラダイムというようなものについての自分なりの考えをふまえた検討でなければならないと思い続けているからにほかなりません。紙面を提供いただきましたことに深く感謝申しあげます。





  2003年3月

滋賀県立大学環境科学部長

小池 恒男