環境学とコミュニティ

内井昭蔵

環境計画学科環境・建築デザイン専攻

環境意匠大講座

1.環境学とは

 環境学は関係学といわれるが、私は切れた自然、切れた生態、切れた歴史、切れた人間関係などを「つなぐ」ことを考えるのが環境学だと思う。環境というと自然、それも動物や昆虫、植物、バクテリアやアメーバーなどを含む生物やその生存環境に目がいきがちであるが、人間の社会、都市も又、環境学にとって重要な視点であることを忘れてはならない。

 あらゆるものを分化し、分断してきたのは工学や技術、など文明であった。文明は人工環境を拡大し、自然と人間の距離を広げ、その結果、さまざまな公害を引き起こした。環境学はこの分断されたさまざまな文明や人工を排除することではなく、それらの相互関連を見出し、自然と人工とをいかにつないでいくかということだと思う。建築や都市はこれまで自然に対し対立的な立場をとり、人工の領域を推し進めてきたが、これからは自然と人工とを結びつける道具としての建築でなければならないと思う。人間の営みの面に目を向けてみても家族の崩壊、コミュニティの崩壊など、工学や技術の発展がもたらした結果として人間関係の歴史的なつながりが切られている。これらは生態系が壊れていることと同じではないだろうか。交通革命や情報革命は一層、崩壊に拍車をかけている。私はこれら文明を否定するのではなく、これらの文明が人間と自然とを再び結びつけるために働くべきではないかと考える。これからの設計とかデザインは関係修復技術ではないかと思う。

2.宿親制度を見直す

 琵琶湖畔のまちはバブル時代から急速に都市化が進んでいる。都市化というよりは環境悪化である。豊かだった里山、田んぼ、河川、湖水は連続し、一つの生態回廊をなしていた。しかし、今はそれらは途切れ分断化されている。琵琶湖水質は悪化するばかりだ。最近犬上川の堤防護岸をするために、貴重な川岸のブナ林がいとも簡単に伐採された。豊かだった川岸の生態系は切れてしまった。景観的連続性も途切れ、むき出しの歯抜け状態だ。防災安全は解るが、そのために生態系を壊すことは許されない。生態系を連続させる工夫をするべきだ。まだ従来の工学がまかり通っているのは情けない。田んぼも同様だ。農薬や化学肥料のたれ流しは問題だ。自然の生態系に手を加えるのなら、それなりの工夫をして切断を止めることが必要だ。里山から、棚田、湖といった一体化された自然が、技術によって分断されている現状はなんとかしなくてはいけない。私は建築の専門だが、他のあらゆる技術者、工学者が一つになって再び人間と自然をつなぐ方法を考えるべきだと思う。それには地域との連携が必要である。

 私は現在、米原町磯区のまちづくり基本構想策定に協力している。磯区は入江内湖に面した半農半漁の村であったが、古くから多くの人が住み、歴史と共に独特な民俗芸能、伝承、風習をもち、集落も湖畔の集落特有な細街路がめぐり、美しい集合形態がすぐれた景観をつくり出している。しかし、この集落も戦中戦後の内湖埋め立て、開拓が行われ、これによって景観も多くの伝統的行事、風習も消えつつある。若い人達の都会への脱出など、まちを支えていた層が抜け落ち、地域の活力は徐々に衰退してきた。磯区のまちづくりは分断された自然や、人間関係をいかに修復し、再びつなぎ合わせるかということだと思う。

 磯区のまちを再構築するには単にハードな施設をつくることだけではなく、これまで、この集落を支えてきた種々な制度、仕組、風習などの中に現代につなぐものを発見し、まちづくりの根幹に据えたいと考えた。そこで着目したのが磯区独自の風習である宿親制度であった。わが国の社会教育化、衛生化、福祉化が進展してきたことは喜ばしいことであるが、この社会制度の充実が文明と同じように人と人とのコミュニケーション、人間的な生き方などを切ってしまうといった面があることを私達は忘れてはならない。宿親制度は磯区のもつ独自な地形にその源がある。この相互扶助的なたて型のコミュニティを古い風習として切り捨てるのではなく、現代的意義を見出し、継承させることが大切ではないだろうかと考える。