環境生態学科この一年

三田村緒佐武

環境生態学科

物質循環研究室

去不追来不拒

 環境生態学科教員の定着度はあまり高くない。大学院博士過程を構想した新設の滋賀県立大学では、学部、大学院修士課程(後に博士前期課程)、大学院博士後期課程のそれぞれの期間は原則として人事が固定されることになっている。しかしながら、いくつかの事情により、開学以来今年度までの7年間に7名の先生が去られた。その事情は、定年を迎えられた(1名)、他大学へ転職された(3名)、他学科へ移動された(1名)、不幸にも現職で他界された(2名)などさまざまである。そのたびに他大学からフレッシュな先生が入れ替わり赴任してこられた。年末に他界された故中山教授の後任が決まると、学科構成員15名の内の7名、実にほぼ半数が入れ替わることになる。

 故中山学科長の下に設置された学科構想委員会の総括にもあるように、環境生態学科が担う学問と教育のあり方を学科構成員がすべて共有することはまだまだ難しい現状にある。学科における教員の移動が、学科のあるべき教育研究の目標にさらに収斂させてきたのかあるいはより多様化させてきたのかの評価は今しばらくその結果を待つ必要があるように感じられる。いずれにしても、環境生態学科の教育研究が日々ある目標に向かって新しく更新されていくことになる。日本の大学がおかれている改革の現状と同様に、激動の学科といっても過言ではあるまい。ただ残念なことに、めまぐるしい教員の移動は、乗り合い船の操舵を誤ると議会制民主主義の破綻を招くことになりかねない。これも航海士の悩みでもある。例えば、学科会議や学科内委員会で合意されたことを周知することがなく、同じ議論を再び繰り返さなければならないことがしばしばあった。これも学問と教育の自由が保障された大学に背負わされた宿命であろうか。

 さて、春に北海道大学から伴修平助教授(専門分野は海洋湖沼におけるプランクトン生態学)を水圏生態系研究室に、名古屋大学から後藤直成助手(専門は沿岸生態系における生物地球化学)を物質循環研究室にお迎えした。琵琶湖学の新たな展望の1ページが書き加わることが期待される。琵琶湖環境の修復を願う私たち学科構成員にとっては喜ばしいかぎりである。また、学科の教育・研究のあり方のさらなる哲学に新しいいぶきを吹き込んでくれるものと学科構成員は期待に胸躍らせている。

 ところが、二人の新しい先生をお迎えする大役を果たしゆずりはのごとく前生態学科長中山教授が12月17日に57歳で急逝された。心筋梗塞だったそうだ。痛恨の極みである。訃報を聞いて出張先から彦根へ駆けつけたが、心ふるえる思いを落ちつかせるのにしばらくのときを要したのを記憶している。

 故中山教授は大学開設と同時に本学に着任され、大学・学科の運営とともに水圏生態大講座・水圏化学研究室で院生・学生の指導を精力的にこなしてこられた。研究室からは優秀な学生が多く輩出されつつある。故中山教授が得意とする専門は、海洋における微量金属の分布とその動態に関する海洋化学である。その研究業績の評価は極めて高く、世界に多くの先駆的業績を残されている。海洋でのその手法を本学着任とともに琵琶湖環境の研究に生かすべく、研究室所属構成員とともに弧軍奮闘してこられた。研究が完成に近づいておられたときの不幸であり、私たち学科の教育・研究にとってその損失ははかり知れない。

 故中山教授が主宰する水圏化学研究室の運営は「和をもって尊しとす」をその根本とされ、心豊かに育った教え子の哀しみはいかほどかと思われる。彼らが哀しみから立ち上がり、師の志を受け継ぎ力強く生きていくことが故中山教授への最大の供養と考えるのは生ある者のわがままな考え方であろうか。先生が人間界へ再び生をえたときに、今よりも棲みよい人間環境を提供できるよう日常の教育研究に努力を怠らないことが、私たち環境学を学ぶ学科構成員に課せられた命題であろう。ここに謹んで哀悼の意を表したい。

こだわりの人生

 故中山先生との出会いは、昭和52年にさかのぼる。京都大学理学部分析化学教室の研修員になっていらい約25年間、公私にわたりお世話になった。その当時、中山先生はちょうどオーバードクターから理学部附属機器分析センターの助手に就任されたばかりで、私が先生の弟子第1号になる。しかしながら、先生とは年齢的も近く2人とも遊び盛りなこともあり「師匠」兼「兄貴」として公私にわたりお付き合いさせていただいた。

 御大の藤永教授から、先生と私に「海水中のクロムについてやれ」というおおざっぱな研究テーマを与えられたとき、2人でどうアプローチしたものかと悩んだ。分析化学初心者の私を指導しなければならなかった中山先生は格段のご苦労であったと想像される。器具類の洗浄から分液ロートの使い方まで基礎的な手法を、先生独自のこだわりで教えていただいたおかげで、今日の自分があるとも思っている。県立大学へ赴任されてからも、さまざまな工作機器を駆使し、新しい実験装置を考案して研究することが信条であった。自分のデスクで仕事をするより、エプロンをつけた身体でいつも実験室で何か工作しておられた。実に実験室が似合う師匠であった。

 研究姿勢だけではなく、私生活でもこだわりを持った生き方をされた。紀伊水道への採水の行き帰りの車中、修学院の自宅、そして四条小橋の酒場でも偏屈なまでのこだわりを聞かされた。今は亡き師匠は、良きにつけ悪しきにつけ「ええ格好しい」の生き方であったと私は思う。それだけに、自身への葛藤も強かったと想像される。いのち燃えつきるときの師匠の心情は「我がこころざし滅びゆくとき、近江路に菜の花咲いてかいつぶり浮き沈むかな」に違いない。老醜を晒すことなく「ええ格好しい」のまま逝った師匠のご冥福を祈りたい。

(鶴房繁和:非常勤講師、朝日大学歯学部教授)

レシピは残るか

 中山先生に初めてお会いしたのは、大学3年生のときである。学生実験の折、先生の部屋にうかがったら、定刻を過ぎても来られず、大学院生が代わりに指導してくださった。中山先生は1時間ほど遅れて来られ、「今日実験やった?」「あ、君教えてくれた。じゃぁええな。続きをやろう。」とおおらかなものだった。今思うとこの頃から授業よりも実践的な研究がお好きだったようだ。研究室に配属されてからわかったが、研究への情熱は凄まじかった。「おまえの研究は下らん」とか「本気でやりたければどんなにしてでも研究しろ」と年中雷が落ちていた。先生が誇る作品の一つに海水のマンガン自動分析装置がある。超微量分析を達成するため、日々工夫を重ねた努力の結晶である。その一途で厳しい研究姿勢が、私はじめ研究室の学生に「研究日は月月火水木金金」と強要させたようだ。その一方で、学生思いのやさしい心遣いが随所に感じられた。特に滋賀県立大学に赴任されてからは、激しさをおさえ、できるだけ穏やかにと努力されていた。私は、「無理せんでもええのに」と内心思っていた。しかし好きなお酒がはいると、若き日の学生運動にまつわる血気盛んな日々の思い出をいくつも話された。先生の心には熱い血が流れ続けていた。学問をはなれると、エプロン姿が似合う先生であった。今では環境生態学科の恒例行事となった新入生歓迎会。メインディッシュは先生自慢のお好み焼きで、取り寄せた料理はガーニッシュとなる。お好み焼きと熟成ソースのレシピは、分析機器の開発と深く関わっていそうな気がする。このメインディッシュを受け継ぐ人材の育成に今からとりかからねばならないと思うのは私だけだろうか。命尽きるまで子供のような純心さといたずら心をもち合わせておられた先生の生き方が、残された私達への遺言であるように思う。

不世出のおもろい先生、ありがとうございました。

(丸尾雅啓:環境生態学科助手)環境計画学科