見えるものと見えないもの

迫田正美

環境計画学科環境・建築デザイン専攻

環境意匠大講座

 大学と社会とのかかわりといえば、教育活動を通じての社会への貢献あるいは連携ということが最も重要な視点のひとつであろう。この視点で論じるとすれば、充分な技術や教養を身につけて、社会へ巣立てるようにというような一般論ではなく、また、個々の教員の活動のあり方ばかりでもなく、将に現在の社会的要請が如何なるものであり、そのような要請に応えることのできるカリキュラムや授業の形態・内容、あるいはそのような要請に柔軟に対応できる組織のあり方といった、大学全体の、あるいは学部・学科の教育目標や教育活動などが論じられなければならないのであろう。このことは突き詰めて考えると、大学の存在意義は何か、ということにまで関わることにもなろうが、課題である「地域社会」との連携という点から見れば、「夫々の大学の」という個別の問題として、つまり大学の個性、特性についての問題ということにもなろう。詰まるところ、1)いわゆる「大学」として、2)県立大学(の学部・学科)として、3)個々の教員の立場で、という3つの方向が絡むわけであるが、これらはレベルの異なる3つの層として有機的に体系化されるとは限らないというのが現実ではなかろうか。

個人的な経験から

 学生諸君からよく相談されるのであるが、「建築空間や都市空間について、人間の感覚や認識の点から扱いたいのだけれど、心理学や認識論について簡単にわかる本はないですか」とか、「建築作品やランドスケープの作品について、その美的価値を測る尺度について倫理学や美学的な側面から考えてみたいのだけれど・・・」などなど(もちろん、実際の会話ではもう少し漠然とした問いなのだが)。

 たいへん大事なテーマを見つけて根本的なところから学びたいという欲求がある一方で、日々の課題や試験をこなしていかなければならないという状況と、教員の側の能力の限界(専門分野の範囲にも自ずと限界がある)もあって、結局個々の学生の努力次第という面も否めない。ただし、建築デザイン専攻の場合、設計演習や卒業設計などの演習の中で、様々な問題を把握しながら、それらを総合的、且つ具体的にひとつの作品へと昇華していく作業自身が、普遍的な問題意識と実践的・具体的な提案を両者同時に醸成する舞台になっている(このあたりの事情はなかなか理解していただけない場合が多いのだけれど)のであり、設計演習がカリキュラムの中心に据えられる理由である。

 建築設計にせよランドスケープデザインにせよ、具体的な敷地においてデザインするのであり、徹頭徹尾その場所・地域への眼差しなしには成り立たない。環境問題はもちろんのこと、歴史や風土、その他あらゆる問題が学生たちの前に立ちふさがっているのであって、日々それらの難問に立ち向かっているのである。(希望的観測かしら?)

 ともかく、ただ単にデザインのセンスを磨いて見栄えの良い作品を作っているだけではないのである。

見えるものと見えないもの

 これらの成果は卒業設計作品展示会だけでなく、様々な形で人々の目に触れている。そのような機会を数多く設けることが学生の教育と社会との連携にとっても重要だと考えてのことである。

 そんなとき、特にオープンキャンパスの折などに、よく耳にするのは、「建築デザイン専攻は展示できる作品がたくさんあって良いですね」などというような話である。確かに建築デザインの学生たちは非常に良くがんばっているし、成果が眼に見える形になるという意味でやりがいもあるというものである。ただ、作品を見るときに良く見てもらいたいのは、個々のデザインの背景にある問題意識と解決への提案の部分である。美しげな模型や図面表現に眼を奪われがちなものだが、本当に大事なところはそこである。建築デザインというと「好き勝手にデザインしてるんじゃない?ほんとに考えてるの?」などと揶揄されることもあるが、「真剣に考えている。」のである。(もちろんパーフェクトとはいかないが)

 そのように自信を持って云えるためにも、環境フィールドワークのようなカリキュラムを大切にしないといけないと、改めて感じる。教員にとっても学生にとっても分野を横断して様々な地域に出て行くことがそのような眼に見えない知見を広げることにもつながる。もちろん、環境フィールドワークの成果そのものを眼に見えるものにしないといけないのであろうが。