曼茶羅と巫術の国々の湖沼から琵琶湖環境のあり方を学ぶ

三田村緒佐武

環境生態学科

物質循環研究室

東洋文明と環境問題

 環境破壊の問題は近代西洋文明の問題であると梅原猛は指摘する。環境問題を解決する思想は、私たちが豊かさを享受している西洋型資本主義社会ではなく、まったく新しい第三の社会経済システムによる社会の構築であろうとも梅原はいう。西洋的生産文明が環境破壊をもたらす思想であるならば、欲望制限の釈迦仏教をその基礎とし、仏の無上正覚の悟りを得る修業により曼茶羅の世界に近づくことを日常とする仏教徒の民の環境はきっとすばらしいにちがいない。また、自然を私有化する思考を持たない巫術の宗教観をもつ国の大地もきっと美しいにちがいない。それらは、日本仏教の特色とされる天台本覚の山川草木悉皆成仏に比してはるかに厳しい日常の修業の上に成り立つが、この生き方こそが環境問題を考えるキーワードにちがいない。まさに、自然と人とが共生する国々では、環境問題すなわち南北問題がきっと皆無だと考えるのはきわめて自然な私のいきつくところであろう。その空間は煩悩のない世界でもある。

 私は、東洋文明の原理の積極的採用が環境修復の道であるという梅原猛の主張を、湖の環境から検証したいとかねがね思っていた。偶然にも、一昨年と昨年にその機会を得ることができた。

曼荼羅と巫術の国の湖沼環境

 その一つは、シャーマニズムとチベット仏教の国モンゴルの湖である。大学院留学生で巫術を生涯の宗教とするハドバータル・ダリジャブ君(現在モンゴルの環境省で活躍している)とともに彼の広大な母国を駆け巡る湖紀行3000kmに出かけた。訪れた湖は沿岸湿地帯と水草帯が貧弱な湖岸生態系であった。水の塩分が琵琶湖より甘いものから海水のごとく辛いまでの湖は、遊牧民とその家畜の大切な水資源で、生活による水質汚濁が心配された。しかしながら、湖水中の窒素・リンなど富栄養化関連物質はきわめて低濃度で、訪れた湖沼のほとんどは清く澄んでいた。

 もう一つは、中国・チベット仏教の地の湖である。松前重義生誕100年を記念して計画されたサブヒマラヤの湖プマユムツオの観測である。森林限界をはるかに超える海抜5000mの荒涼とした大きな湖(琵琶湖よりわずかに小さい)は、私たちが訪れた時は、その湖面が結氷して湖中の姿を現さず観測を思うがままにさせなかったが、いくつかの貴重な情報を得ることができた。チベットの湖沼群の中では塩分は低く、栄養塩化合物の現存量もきわめて低い値が測定された。また、雪解けの観測時の透明度が10mであったことやシャジクモ帯が水深30mの湖底にまで広がっていたことなどから、この湖の透明度は、ときには30mをはるかに超え世界でも有数の清らかな湖であることが想像された。

琵琶湖環境の修復に東洋哲学は有効か

 これら国々の民の生活はけっして豊かとはいえないが、彼らの悠々たる表情は私たちをはるかに超えた人としてのあたたかさと大きさを感じさせる。曼荼羅仏教と巫術宗教のつつましやかな人びとの生き方が、まさに湖の環境保全の基本であると想像された。ひとり一人が人間活動の適正規模と動的循環平衡を歴史から学びこれを忠実に守っている結果であろう。

 これら厳しい自然環境の国々の巡礼観測は、私にとってかなり過酷であったが、東洋思想が環境問題の解決の糸口になると確信した旅であり、また、この日本ではますます頑固に小数派として生きていかなければならないと心にいいきかせた旅でもあった。東洋思想が琵琶湖環境の保全にとって有効であるなら、私たち琵琶湖住民が基礎としている西洋環境観を改め東洋哲学を積極的に取り入れる必要があろう。しかしながら、このような視点を琵琶湖と共に生活する人びとの生き方とし、琵琶湖環境の修復に向けて自らの生き方を見つめなおすことは可能だろうか。今回の旅から学んだことを私の琵琶湖研究に生かそうと考えるが、この巡礼観測の成果の検証には私自身の循環哲学の生き方の総括と自己完結を含めしばらくかかりそうである。