地域に向き合う姿勢 ―― “たば”と“ばら”のちがい

井手慎司

環境計画学科社会計画専攻

環境社会システム大講座

 昨年、あるワークショップで、水俣病センター相思社の遠藤邦夫さんがこんな言葉をのこしている。

 「実際に起きたこと(水俣病)は、ひとり一人の身の上に起きたことです。最初に病気が発見された5歳の女の子の話も十分に物語だし、それぞれの患者さんにも物語があります。ところが、運動として考えるとどこかで束(たば)にして考えてしまっている。こんなに被害が多かったぞ、てね。被害者が3500人いれば、4000人はいるぞ、なんて言い方を僕なんかはしてきたんですが、それってインチキだなと自分でも最近思います。実際ひとり一人にあったことを、僕らはどうやって受け止めていけばいいのか...これは運動への根本的批判だと思うんですが、杉本栄子さんという方がいらっしゃいます。ご自身も水俣病ですが、その杉本さんに言われたのは、裁判とかチッソとの交渉とかするときに、あなたたちはほんとうによく手伝ってくれた、運動のしかたも教えてくれた。でも一段落したあと、どうやってみんなで仲良く暮らしていけるかは、なにも教えてくれなかったね、と。」

 水俣病患者を救済するために、外部から水俣の地にやってきた遠藤さんたちの、自分たちのかつての運動に対する自己批判として発せられた言葉であったが、その時、わたしの心をつよく揺さぶったのは「束にして」という表現だった。

 実はわたしには、ずっと悩みつづけていたテーマがあった。それは、環境リスクの管理において、確率論的なアプローチとリスクコミュニケーション的アプローチの間にあるギャップを、どうやったら埋めることができるか、という問題だった。たとえば、環境リスクでは10-5(10万人に一人)とか10-6レベルの発ガン率をよく問題にする。多くの場合は、それ以下であれば、リスクを容認しましょうという基準である。しかし、たとえ10万人、100万人に一人であっても、ガンに罹った人にしてみれば1分の1じゃないか,と悩んでいた。

 しかし遠藤さんの“束(たば)”という言葉を聞いたときに、ヘンに納得した。確率論的にリスクを考えるとは、人々を“たば”にして考えることなんだ、と。

 しばらくして、遠藤さんの言葉の意味をもう一度、考え直す機会があった。“たば”でいけないのなら、“ばら”として考えればいいのか...言葉の連想だった。水俣病の“患者”を“ばら”にして考える、というところから「臨床医」という言葉が頭に浮かんできた。そうだ、臨床医はけっして患者を“たば”にしては見ていない、と。

 同時に、つぎのような疑問が浮かんだ。“たば”にして考えることは、本当によくないことなのか? 臨床医学の反対なら「基礎医学」だ。患者を“たば”して考えないと基礎医学は成り立たない。しかし考えてみると、だれも基礎医学がいらない、などとは言えないだろう。たとえ“ばら”としてのすべての人に効かない薬や治療法であっても、“たば”として有効であれば、それで多くの人々が救われるのだから。

 臨床医とは、基礎医学によって得られた知見を十分に活用しながら、さらに患者個々の病歴や体質などのさまざまな要因を考慮にいれ、患者とコミュニケーションを図り、ときには精神的に患者をささえながら、ひとり一人の患者の治療にあたっていくもの。

 気がついてみると平凡な結論に達していた。人を“たば”と見ることも、“ばら”に見ることも、どちらも大切だった。

 ただ、今回の学部報のテーマである「地域」、特に地域の環境の問題というものを考えたとき、そこに求められるのは、やはり“たば”ではなく、“ばら”としての物ごとの見方だろう。当たり前だが、それぞれの地域にはそれぞれの個性や物語がある。さらには、地域のなかにくらす人々を、同じ地域にすむからといって“たば”として括ることはできない。

 最近、研究者と市民をむすぶ「インタプリター」の必要性が叫ばれている。しかし、ただ単に研究者の言葉を市民や住民にわかりやすく翻訳するだけでは不十分だろう。いま地域が求めているのは、町のお医者さん、つまり臨床医としての環境の専門家なのではないだろうか。ちゃんとした基礎医学(科学)に立脚しながら、地元の人々と十分なコミュニケーションを交わし、診断と治療ができる医師(専門家)、地域のために処方箋がかける専門家、けっして地域を“たば”としては扱わない専門家である。

 水俣では、遠藤さんたちがそのことに気がついたときに、人々の心をつなぐ「もやい直し」がはじまったという。