琵琶湖の水に支えられた命

後藤直成

環境生態学科

水圏環境大講座

 琵琶湖の汚染の影響をまず始めに受けるのは,そこに生息する生物である。彼らは水の汚染を敏感に肌で感じ取り,直接生命の危険に曝される。もちろん,人間も水汚染の影響を受けるが,その感じ方,受け止め方は琵琶湖を棲み家とする生物に比べれば,一般的に非常に鈍感である。現在ある地球上のさまざまな環境問題発生の根源は,人間が身の回りの環境変化に対する鋭敏な感受性を失ったためではないだろうか。しかし,人間は元来このように鈍感だったわけではなく,太古の昔,自然が人間の生命を脅かす存在であった時代には非常に敏感に環境のわずかな変動を察知していた。ところが,その後,自然を支配しようとする文明・文化が進歩し,自然環境と人間との間に隔たりが生じ始めた頃より,その鋭敏な感性は失われていった。

 自然が人間の生命を日常的に脅かすことがなくなった現在,自然に対する「鈍感さ」が人々の間で蔓延しているけれども,一部の人達,例えば琵琶湖周辺に住んでいる人達に関して言えば,水質の良し悪しに直接健康・命を左右される人,琵琶湖から日々の生活の糧を得ている人などは琵琶湖の汚染に対してとても敏感であり,現在最も身近に危機感を抱いていると思われる。特に,前者の人々にとっては琵琶湖の汚染は深刻な問題である。重度な水質汚染による代表的な公害病としては,水俣病やイタイイタイ病があるが,比較的軽度な汚染であってもその影響を直に受ける病もある。 具体的に一例を上げれば,血液透析を受けている腎不全患者らである。

 失われた腎臓機能の一部のみを補う血液透析は,血液と透析液(生理食塩水の様なもの)が半透膜を介して接することにより体内の毒素を取り除く治療法であるが,この時,透析液を作るため大量の医学的に清浄な水(1回の透析で平均120〜150L)が必要となる。透析液は原水(水道水,井戸水)をRO(逆浸透)装置等にかけ,体に有害な物質(遊離塩素,クロラミン,アルミニウム,フッ素,銅,エンドトキシン,細菌,パイロジェンなど)を取り除いた後,作られるが,RO装置はあらゆる有害物質を完全に除去できるわけではない。つまり,原水の汚染がひどい場合,透析液に大量の有害物質が混入する可能性がある。この有害物質が透析膜を介して血液中に直接混入すれば,直ちに体への影響が現れる。実際,現在でも原水の汚染物質が原因と考えられる透析中の死亡事故が少なからず存在する。また,汚染の影響として,短期的にはエンドトキシンが体内に混入することによる発熱,血圧低下,頭痛,吐き気,長期的にはアルミニウム汚染のひどい原水を長期間使用したために起こるアルミミウム脳症・骨症などがある。

 このように滋賀県の多くの透析患者は琵琶湖の水により自身の血を洗われ,琵琶湖の水の良し悪しで自身の健康を左右される。そのため,彼らは琵琶湖の汚染に非常に敏感であるし,琵琶湖の紺碧を汚さないよう心がけ,行動している。いつの時代も,環境問題と最後まで真剣に闘うのはその影響を受ける当事者のみである。当事者でない者は影響を受ける者の苦しみが理解できない故に,時に平気で環境を汚染・破壊する。人に対しても,自然に対しても「鈍感」なのである。この「鈍感さ」を治さない限り,現在ある環境問題の解決は困難であり,環境汚染と破壊は続くのではないだろうか。そして,当事者になった時初めて気がつくのではないだろうか。

 これまで,私は干潟をフィールドとして生元素の物質循環に関わる研究をしてきたが,その生物地球化学的研究の中で,干潟生態系が物理・化学・生物パラメータ相互間の微妙なバランスの上に成り立っていることを知った。現在,日本の干潟の面積は埋め立て,干拓などにより年々減少し,1945年に約82,000 ha存在した干潟が,1991年には51,443 haまで減少している(環境庁自然保護局,1994)。干潟の消滅は,そこに生息する生物を絶滅させるのみでなく,隣接する海域に深刻な水質汚濁と漁業被害をもたらす。例えば,三河湾では1955年から1970年頃にかけて水質が急速に悪化,その後,1975年頃から赤潮,貧酸素水塊の発生日数が急増している(鈴木ら,1996)。この現象は,海域が富栄養化したところへ,干潟の埋め立て(三河湾では,1970年代に約1,200 haの干潟を含めた沿岸帯が埋め立てにより消滅している)などにより,水質浄化機能が奪われ,赤潮,貧酸素水塊が発生したと考えられている。

 陸域-海域間の推移帯に位置する干潟は,潮汐に応じて常に冠水と干出を繰り返している広く平らな砂泥地帯であり,底生生態系にまで達する光エネルギーと陸域からの豊富な栄養供給により,常に高い生物生産と豊富な生物量を維持している。このように特徴的な環境要素を持つ干潟は近年,その人間社会に対する価値(水産資源の生産,水質浄化機能など)が再認識されてきている。このようなことから,全国各地で人工干潟が造成されてきているが,(1991年における全国の人口干潟の総面積は271 ha)天然干潟の生物量,種数,そして水質浄化機能に匹敵する人工干潟は未だ生まれていない。天然干潟をつぶして,その代償に人工干潟を造ろうとする考え方は,まるで,現在正常に機能している腎臓を切除して,人工腎臓に変えるようなものである。これらは,環境汚染と破壊の結果として自然システム・生態系構造が示す応答に対する理解の鈍感さが招いた代表的な事例である。



引用文献

環境庁自然保護局(1994)

第4回自然環境保全基礎調査,海域生物環境調査報告書(干潟・藻場・サンゴ礁調査)第1巻干潟.

鈴木輝明,青山裕晃,畑恭子(1996)

干潟における生物機能の効率化,生物機能による環境修復,水産学シリーズ110,109-133.