不確実性の増す環境と水田農業の技術研究

秋田 重誠

生物資源管理学科

生物資源生産大講座

 科学万能の今でも、農民は気象災害と戦っている。食料生産の科学に携わる者にとって、「環境」は太古から向き合わざるを得ない対象であり、「環境学」といわれると何を今更との感が強い。私が、ここに赴任したのは、これまで、資源植物の生産生態・生理学という分野の研究に携わりながら、フィールドと少し距離の遠いところで仕事をしてきたため、そろそろ農学博士であることの意味が気になりだしたというのが正直なところである。地域性に拘ることなく、普遍性の高い真理を探究する国立大学の農学関連の学部では分子生物学などを基盤とした研究・教育が花盛りである。遺伝子操作により、耐塩性、耐旱性などの強い資源植物が作り出される日も遠くは無かろう。これは学問的には興味深いことである。しかし、水がなく、乾燥地であるから塩害が問題となるのであり、耐塩性、乾燥耐性の植物を作ってもどのようにして水を確保するのか。錬金術はあり得ないのである。これに象徴される短絡的集団が恐ろしい勢いで増えている。フィールドという複雑系を対象とした研究に対し、分子生物学など実験室で行われる分野は論文を書きやすいことが、皮肉にもフィールドベースの科学を駆逐する結果となっている。真理を求めることと論文数、イベント性などとは本来何の関係もないはずである。

 もちろん国立大学の担う使命は大きいが、フィールドから発想し、フィールドに寄与できる技術研究者を育てる使命が大学にはある。かつて、「農学栄えて農業滅ぶ」というフレーズは常に農学研究者の頭の隅にあったが、今や分子生物学など先端科学を志すことがフィールドでの問題解決に貢献するとすりかえられ、このような自戒すら風化しようとしている。このような国立大学でのフィールドサイエンス軽視の教育環境の中に身を置いてきた私は、無数にある国立大学と同じ研究、教育をここでやろうとは思ってはない。わが国の生産基盤である水田農業を対象とした生物資源の管理について、私がこれから取り組みたいと考えている課題のいくつかは次のようなものである。

 最大の課題は、環境の不確実性が増大するなかで、安定的に、安全かつ十分な食料を確保する技術である。本年の夏の気象が「北冷西暑」という新たな用語を生んだ。このことに象徴されるように、気象、気候の変動はこれまでになく増大している。農業技術という視点に立つと、平均的に温度が漸次上昇するという温暖化よりも、温度変動が増大することのほうがよほど深刻な問題となる。また、気象、気候などの非生物的環境にとどまらず、病害虫、鳥獣などの生物的環境をも含めた生産生態系を取り巻く環境の変動も予測しがたい。すなわち、環境の不確実性は年ごとに大きくなりつつある。このような状況下でも、技術、研究開発に対して具体的に求められているのは、危険分散、回避のための多様な技術、これらの技術開発の根幹となる基礎的研究、農家の技術力の向上、信頼性の高い情報収集などであろう。

 なかでも安全・良質・多収という農の基本を中心に据えるべきことは述べるまでもない。米の一時的生産過剰の中で、多収研究を省みる研究者はわが国にはほとんどいなくなっている。しかし、どの農家にとっても秋の豊かな実りは歓びであり、経営上も柱となるべきことである。輸入飼料に端を発するBSE回避のための自給飼料生産の可能性を検討し、調和のとれた環境をとりもどすためにも資源植物の太陽エネルギー固定能力を向上させることが最善の道となろう。かつて、「こんなところにまで水田を作って」と子供心に疑問を抱いていた山間の水田は自然の姿に帰りつつある。これまで拡大し続けてきた耕地を、可能な限り自然に帰すことが許容できるに至った背景には、単収向上技術の蓄積がある。

 また、気象変動の増大により滋賀県をはじめとする暖地の稲作では、異常高温による品質・収量低下が農家の頭痛の種になっている。しかし、今のところ、この回避、軽減技術はほとんどない。さらに、北日本では冷害の危険も増大している。イネの冷害についての研究も大いに進展したが、未だに、冷害を回避する篤農技術の有効性を科学的に証明することすらできないのが現状である。

 ついで、水田の汎用化に対応する技術開発がある。水田農業は、基幹作物、イネ、だけでは持ちこたえられない。多様な作物を水田農業に取り込むことが、自給率向上の根幹として期待される。

 基盤整備による汎用化水田の造成もそのための、一つの技術であるが、これと同時に導入畑作物の耐湿性を向上させることも、大きな技術研究の柱であろう。補助金目当ての小麦作で自給率の向上が図れるはずもない。真に、穀物自給率の向上を目指すためには、水田にイネ以外の作物を導入し、安定的かつ十分に経営的に成り立つ生産性の高い作物を作り上げることが不可欠となる。技術研究の蓄積のないままに、自給率の向上のみがうたわれる農業の基本方向ほど無味乾燥なものはない。かつて、滋賀県の水田にはカブが作られ、ナタネも栽培されてきた。米と漬け物は郷土の誇るべき食文化である。最近、ナタネはドイツなどでバイオディーゼル燃料(BDF)としての利用が現実のものとなり、栽培面積もそれらの国を中心に急増している。滋賀県でもこれに刺激され、試験的にナタネ栽培を復活させる取り組みがみられる。しかし、行政のポーズに踊っているだけでは生産農家は見向きもしてくれないであろう。現状のナタネの生産力はあまりにも低く、実用栽培ができないのである。研究がなければ実用栽培などあり得ない。カブ、ナタネなど滋賀の風土に適した資源植物の研究の核となるだけの研究蓄積をめざすことも水田農業の発展のために寄与する道であろう。

 社会の価値観がこれまでの効率、大規模化、画一・単純化というキーワードから快適性、安全性、持続性、多様性へと大きく転換しつつあるなかで、次世代の農業という生物産業の技術が問われている。にもかかわらず、現実には、国際競争力を付けるためとの大義名分のもとで大規模化、効率化のために、認定農家を設置し、専業農家の育成に食料生産をゆだねる構図が描かれている。わが国の農業の担い手は一握りの大農経営者ではない。これまで、幾多の技術開発のもとに兼業農業を定着させてきた施策を、一挙に転換させる技術的背景はあるのであろうか。これらの兼業農家が定着し得たのは世界に類をみない小型機械化体系の技術研究があればこそである。効率的ではないかもしれないが、自律性が高く、安全性の確保、環境との調和にもっとも有効である自給的兼業農家という、農業と他業種との複合経営を排除する必要はどこにあろうか。わが国の風土に適した多様な水田農業を存続させるための技術研究を展開することこそ、次世代のための技術研究であると考えている。兼業農家を主体とした水田農業がなければ、琵琶湖は今の姿をとどめていなかったであろうと思うと、なおさらである。規模は小さいが、安全な食料を供給できる良心的兼業農家を、効率化・外国との競争力強化などのために無視しようとする風潮がまかり通るとは思えない。稲作のための労働時間は機械化により大幅に短縮されたとはいえ、日曜百姓にとっては、まだ拘束時間は長い。わが国の稲作の歴史において変わることのなかった移植という作業から解放され、水稲の直播栽培が可能となれば市民農園的、クラインガルテン的取り組みでも現在の平均的耕作面積1ヘクタール程度の米生産は可能となる。環境指標である琵琶湖を中心に据えた郷土こそ、わが国、あるいはアジアの水田農業の縮図であり、この動かしがたいフィールドの中から技術研究,農学の基礎的研究のあり方を発想し、食料・環境問題に寄与することが、国立大学と立場を異にするアイデンティティーの明確な教育研究であると信じている。近い将来、琵琶湖という明確なフィールドにたち、生物資源管理のあり方について真理を考究する淡海学派集団が県立大学に育ち、生産現場で通用する技術研究者がはばたくことを願っている。