環境にやさしい水産増養殖

杉浦省三

環境計画学科

環境・建築デザイン専攻

スーパーマーケットの魚売り場などに行くと、最近は外国産の水産物が目立つ、特に養殖物が多い。身近な所からも養殖が海外で盛んなことが伺える。アジアの発展途上国を中心としてここ20年ほど、世界養殖生産量は年間10%近い勢いで増加している。これは全食糧生産部門で最も急速な成長率だそうだ。従来の「とる漁業」(漁獲)がもう上限に達し頭打ち状態なのに対し、養殖による「生産」は作れば作るだけできる、という漁獲とは対照的な将来性を数値で表している。今後この分野での発展が期待されるのも当然と言える。3年前に開かれた国連のヨハネスブルグサミットでも、このような養殖に対する期待が明記されている。ただ、養殖が今後持続的に発展し世界の水産物需要に応えるためには養殖がもたらす環境負荷をいかに低減するかがカギである、とも追記されている。養殖排水中の環境汚染物質としての筆頭がリン(燐)である。したがってリンの排泄量を低減するというのは、養殖の成否、水産の将来に関わる課題ということになるかもしれない。欧米諸国では、既にリンの上限規制などの環境基準が施行され、養殖業者を締め上げている。その結果、減産や廃業に追い込まれる者も少なくない。一方、途上国では環境規制が無いか、あっても監視の目が行き届かず、そのため貴重な陸水が手放しで汚染されている。いまリンの排泄量を低減するための技術開発が望まれている。

私は水産養殖が専門であるが、養殖を専門とする学者ではなく、養殖技師である。長年養殖に従事してきた経緯から、現場を離れて研究生活に移った今も、「現場の目」から生きた研究を最優先に考えている。学問としては魚類栄養学という分野が一番近いかもしれない。魚類栄養学と言っても栄養素の数だけ分野がまた細分化している訳で、私はリンの栄養生理が専門である。リンの研究を始めてもう20年近くになるが、リンに特別こだわっている訳ではなく、基本的に「問題解決型の研究」には何でも関心がある。研究とは分野に関わらずその研究が重要であればあるほど、それだけやりがいもあると思う。今後は多方面の研究に携わっていきたいと思う。ただ、もしリンではなく何か他の栄養素を研究していたなら、おそらく今、環境学とは殆ど縁のない所に居たのだと思う。「環境学」というのは私にとってそれほど偶然の出会いなのである。

リンの栄養学が魚類養殖において重要な理由は、魚の排泄物は直接水中に出されるため回収が難しい、というところにある。家畜や家禽ならは糞を回収して畑に運び肥料として利用できるが、水棲生物の排泄物はシャベルでかき集めることができない。従って食べたものは全部消化吸収してもらい、糞も尿も一切出さないでくれれば一番有難いということである。それは無理としても、糞と尿を出してもよいが、その中にリンが含まれていないというのが理想である。残念ながら、リンの消化吸収率は未だそこに至るまでには程遠い。現在使われている養魚用配合飼料では40%ぐらい、つまり餌として口から入ったリンの実に半分以上(60%)が排泄されていることになる。10年前は20%ぐらいしか吸収されていなかったのだから、少しは改善されている訳である。概算すると、魚を1 キロ生産するごとに約12グラムのリンが排泄されていることになる。養殖とはかなり環境にきびしいことが分かる。    

魚の場合、糞中に排泄されるリンの殆どが消化吸収されなかったもので占められている。従って、リンの消化吸収率を向上させることで糞中のリンの量を減らすことができる。その具体的方法としては二つあり、一つめは難消化性のリンを直接消化するという手法(酵素や酸などを使用)、もうひとつはリンの消化性の高い原料を使うということである。リン輸送担体(トランスポーター)遺伝子を過剰発現させる方法もあるが実用的でない。 一方、尿中に排泄されるリンというのは一度吸収されたものであり通常、過剰のリンを意味する。従って、尿中にリンが出ている場合は飼料中の有効リン(消化吸収できるリン)の量自体を減らす必要がある。そのためリン含有量の低い原料を使用しなければならない。

ただ、減らし過ぎると今度は魚のほうがリン不足で欠乏症(成長不良、骨格異常など)に陥る。リンは骨や歯、DNA やATP の構成元素であり、代謝上も非常に多くの役割を担っている。リンというのは魚(全ての生物)にとって必須栄養素なのである。 従って、無リン洗剤のような感覚で低リン飼料を作るわけにはいかない。 飼料中の有効リンの量は常に適正レベルでなければならないのである。これを有効リンの最低要求量と呼んでいる。この最低要求量未満だと魚が欠乏症に陥り、超過すると環境中に余分のリンが出てしまう。難しいところは先ほど言った有効リン(消化できるリン)の含有量が飼料原料の種類や加工方法などによって変わるという点に加えて、この最低要求量自体が飼料のカロリー含量、たんぱく質や炭水化物の消化率、利用率、そして飼育条件などによって変わってくるという点である。さらに、最低要求量を調べる場合、稚魚ならば成長速度も速く栄養不足にすぐ応答するので簡単に分かるのだが、成魚の場合は通常の方法では診断が困難である。8年ぐらい前に尿中(代謝性)リンの排泄量をもとに最低要求量を報告した。これは、環境負荷を直接考慮しているという事と、代謝性リンの応答が極めて早いことから、成魚や親魚のリン要求量を知る上で特に有効な方法である。近年は飼料中のリンの不足に対し敏感に応答する遺伝子を網羅的に検索し、いくつかの特定された遺伝子の発現レベルを調べることで、リンの摂取状態(適正か不足か)を成魚においても診断できるような技術を開発している。早い遺伝子だと3日ぐらいで飼料リンの不足に応答するので、従来の方法(血中リン、骨中リンなど)に比べてかなり感度が良いということになる。この方法を生産レベルに適用することで、リンの診断が魚のサイズを問わず高感度ででき、養殖魚のリン欠乏症を早期に検知できると共に、環境水中への余分なリンの負荷を軽減することができる。

前述したように、現在の生産レベルでは糞中のリン排泄量は一般飼料で60%ぐらい、低リン(低汚染)飼料を使った場合でも50%ぐらいということが最近の研究で分かっている。尿中のリン排泄量は通常、糞中の排泄量に比べてずっと少なく5%以下である。一方、実験室レベルでは糞、尿共にリンの排泄量をゼロにすることは既に達成している。すなわち、リンのゼロエミッションは技術的には可能である。これを現場に適用するには、飼料コストと(魚の)成長低下を克服する必要がある。環境にやさしい技術というのは生産者には厳しすぎる、というのが現状である。水産養殖による持続的食糧生産のためには、環境だけでなく生産者にも(消費者にも)やさしい技術の開発が望まれる。

冒頭で持続的食糧生産における養殖の重要性を述べたが、琵琶湖に限って言えば、養殖産業は(アユ以外)あまり盛んでないようである。じつは養殖というのは魚介類を繁殖、養成し、出荷(販売)に至るまで全て人為的に管理するのに対し、「増殖」とは一定の大きさまで養成した後、自然水域に放流するものである。従って、養殖も増殖も放流するかしないかの違いを除けば同じことであり、そのため増養殖という言葉がよく使われる。琵琶湖の水産資源管理と資源量補充のために必要となるのは増殖のほうであり、増殖にも当然リンの問題が付きまとう。水産増養殖は国内外を問わず、環境にやさしい技術が求められている。