和製合意形成手法の構築を目指して

錦澤滋雄

環境計画学科

環境社会計画専攻

私の専門

現在の私の最大の関心は合意形成である。専門を尋ねられてこのように答えると、「なんですか?」と問い質されることが多いので、いつもは「環境計画」とか少し事情に詳しい人には「参加型計画づくり」などと答えることにしている。

学生時代はまちづくりに関心があったので、「都市計画」と答えていたが、これもうまく伝わらないことが多かった。「ウォーターフロント開発とかですね?」という反応である。一般の方は都市開発をイメージするようで、「それも一つですね」などとお茶を濁していた。

合意形成の対象は、都市の将来像策定などのまちづくり、道路事業やダム建設などの土木分野、マンション建替えなどの建築分野、化学物質管理などの環境安全工学、遺伝子組み換えなどの科学技術社会論の分野など、関連する領域が広いこともあり、独立した専門領域として確立していない。この意味で、「専門は?」の答えとして不適切かもしれない。

このように暗中模索しているから、「私の環境学」を語れるようになるまでもう少しかかりそうである。そこで本稿をこれまでの筆者の経歴と若干の問題意識に代えさせていただくことをお断りしておく。

社会工学科でのスタート

1993 年の春、東京工業大学の?類に入学して、その1年後に社会工学科に所属した。社会工学科は、40年ほど前に設立された文理融合の学際領域で環境計画、都市計画、経済学、社会学、公共政策学など幅広い分野をカバーしている。「社会の問題を工学的なアプローチで解く」という謳い文句で紹介されていたと記憶しているが、この理念は本学の環境社会計画専攻とも通じるものがあり、末石冨太郎先生が専攻設立時に参考にされたと聞いている。

当時のVI類は、土木、建築、社会工学の三つの学科に進むことになっていて、2 年生から配属される。私は入学当初、建築家を志していたが次第にその関心は薄れて、環境問題やまちづくりに惹かれるようになっていた。出来の悪い学生だったので、一番人気の建築学科は選択の余地がなく、単に正当化したかっただけかもしれない。しかし漠然と社会工学に関心を持っていたことも事実で、学科所属には満足していた。

学科所属から2 年経った1996 年4 月にゼミに所属した。環境問題とまちづくりの両者をテーマにしている原科幸彦先生の研究室を選択した。原科先生は環境アセスメントがご専門だが、当時は都市計画を研究している院生が数名在籍していた。ゼミは博士課程の先輩が厳しく、刺激的だが発表者としては胃が痛くなる思いだった。

博士号の授与、釈然とせず

学位論文は参加型会議手法としてワークショップに着目した研究に取り組んだ。鎌倉市や日野市などの事例研究がベースとなっているが、これらは第三者的視点から観察・分析したものであるから、情報収集に苦労した覚えがある。行政担当者によっては情報を出し渋るので、しつこく通って嫌な顔をされながら情報を集めていた。

行政やコンサルタントの方々が苦労して実施したワークショップの貴重な成果をどこの馬の骨ともわからない若造が持ち帰って勝手に評価するのだから当然かもしれない。しかし何度か役所に通っているうちに、顔馴染みになりうまく情報を引き出すことができるようになった。

2002 年3 月に学位論文を書き終えた。博士号の授与は感無量で達成感もあったが、通過点との思いも強かった。ファシリテーション(ワークショップの司会)の経験も十分ないまま、果たしてワークショップのことがわかったといえるか釈然としなかったのである。これは参与観察の限界かもしれない。

科学技術振興調整費の研究プロジェクトに参加

学位取得後、研究室の助手として環境計画・政策分野の研究・教育に携わった。助手時代の二年半で忘れられないのが、文部科学省の科学技術振興調整費による研究プロジェクト「循環型社会システムの屋久島モデルの構築」である。鈴木基之・国連大学副学長(当時)をリーダーとして、鹿児島大、豊橋技術科学大、東京工大、東京大などが参加する大型プロジェクトである。年間数千万円割り当てられた予算の経理業務は全く経験のない仕事であり、始動期で運用規定が硬直的だったこともあって四苦八苦した。研究に充てるべき時間が大幅に削られて後進の指導もままならず、学生は不満だったと思う。

このプロジェクトは、物質、エネルギー、経済の三つの循環を軸に、持続可能社会のモデルを構築することを目的としたもので、フロー解析が比較的容易な島という物理的条件と、世界自然遺産に登録されて住民意識が高いという理由から屋久島が選ばれた。私の所属するグループは、研究者が提案したモデルを島民と合意形成を図りながら練っていく役割で、研究者と地元とのいわば橋渡し役である。

人集めに奔走 〜都市の論理押しつけて失敗〜

屋久島プロジェクトでは、ワークショップのファシリテーターを自ら務めることができたが、それ以上に学ぶことが多かった。通常は地元の行政、コンサルタント、研究者の三者が協働して行うはずの、参加者集め、会場の確保、プログラムの作成、研究の企画・立案、会議の運営・記録、成果のとりまとめと分析など全ての作業を自分たちで行った。まさに三足の草鞋である。

もちろん関係機関にご協力いただいた恩を忘れてはいないが、人集めにはかなり苦労した。二年目に実施した世代間交流ワークショップでは、地元の全ての中学校(といっても六校)と高校の生徒に参加してもらうため、台風直撃の暴風雨に協力依頼に奔走した。一部の学校では朝礼の時間を10 分ほど頂戴して、直接生徒に参加を呼びかけた。

今振り返って反省すべき点はワークショップを(行政区としての)町単位で実施した点である。それまで都市部を対象に研究してきたから、市町村単位で実施するのが当然と思っていたが、集落の存在を見落としていたのである。個人へのヒアリングでは、食事やお酒を呑みながらさまざまな話を聞かせてくれる島民も、町全体の集まりとなると腰が重く、なかなか参加してくれない。集落単位でワークショップを企画していたら、人集めももう少しうまくいったし、より本音の議論ができたと思う。

合意形成の難しさを通じて行政に共感

プロジェクトの三年目に実施した持続可能な観光をテーマにした全島会議も貴重な経験だった。いくら合意形成の必要性を訴えても、利害関係者がテーブルに就いてくれないから対話自体が成立しない。とにかく何度も足を運んで、屋久島の観光の将来にとって重要な会議であることを説明した。なんとか利害関係者に集まってもらうことができたが、これは合意形成にとって大きな前進なのだ。

会議はシナリオワークショップという方法で進めたが、関係者の意見はさまざまで、合意形成できたのは一部の論点に限られる。言葉の定義の違いによるすれ違いや利害・価値観の対立などが見られる場面もあったが、事務局への風当たりも強かった。「その程度のシナリオか」「勝手にまとめるな」「会議実験とは何事か」など多くのご批判を頂いた。少し大げさかもしれないが、身を粉にして市民参加に取り組む行政職員の気持ちはこういうものだったのか、と行政に共感した。

それでも、一部の参加者からは「部外者にもかかわらず本気で取り組んでくれた」「島民の問題だから今後の議論に活かしたい」との前向きな感想を頂いた。全く非科学的で恐縮だが、合意はこのような信頼関係の構築を通じて、ゆっくりと着実に形成していくものであろう。

和製合意形成手法の構築を目指して

このような経験を通じて感じるのは、合意形成の方法はその場の状況に応じて無限にありうるが、日本流の合意形成手法なるものがあるのではないか、という思いである。残念ながら現状の会議手法のほとんどが、ワークショップ、コンセンサス会議、プランニングセルなど欧米から輸入された技術である。わが国独自の文化や社会、歴史と伝統を踏まえた方法論を確立しなくてはならない。

大岡政談の「三方一両損」の話は有名だが、これはゼロサム状況下での合意形成の本質をついた妙案だと思う。大岡忠相を現代の行政になぞらえれば、合意形成に資する重要なヒントが得られるはずである。逆にわが国の悪しき慣習を改善する努力も必要である。行政の意思決定過程における事務次官会議や局長会議は伝統的に全会一致の慣習があるが、実質的に根回しが前提で会議は儀式になっているという。昨年4月にヴァチカン市国で実施されたローマ教皇の選出選挙(コンクラーベ)は、3分の2+1の得票で決まるが、全会一致は無効になるという面白いルールがある。全会一致は不自然な結果であり、不正防止のためと解釈できよう。

今後は、先人の知恵、諸外国の知恵の両者を活かしながら、日本流の合意形成手法の構築に取り組んでいきたい。