私の環境学

矢部勝彦

生物資源管理学科


 環境学とはどんな学問なのだろう?

 まず、環境学という言葉の前にどうしても避けて通ることの出来ないもの、すなわち、環境とは何かを明らかにしておくことが重要ではなかろうか。仮に環境と言う言葉が分ったとしても、環境学の意味が見えてこないのが率直な感想である。文献からの情報を借りても、どうも学問の世界ではまだ十分な市民権を得ておらず、その内容が十分に出来上がっていない学問のようである。したがって、発展途上である私には見えてこないのは当然であることがわかり、内心ほっとしている。しかし、あえて環境という言葉を考えてみよう。「環境とはどうも単独には存在するものではなく、中心として存在するあるもの(主体)があり、それに付随してあるいは、周りに現れてくるもの」のような感じがする。そうすると、この主体なるものが何であるかにより対象となる環境が異なってくるように思われる。すなわち、この主体となるものとして例えば、人間、人間以外の動物、植物などのような生物、あるいは河川、海、湖沼などの場が想定されるのではないだろうか。今、人間を主体とした場合を想定すると、人間にとっての環境とは、人間を取り巻く環境と規定することも可能だろう。私の場合、生物資源管理学科に属しているので、主として植物を主体に設定し、それらを取り巻く自然を対象に考えることになろう。ここで言う「主として」という意味は当然のこと植物以外を主体にした環境をも考えることを意味する。しかし、ここでまた、問題として、自然とは何か。これは大きな課題である。例えば、植物が植わっておれば自然があると言う言葉をよく耳にするが、これは正しいのだろうか。私には疑問に思われる。何故なら、一列の街路樹並木があれば、緑が多く、自然が多くあると表現をする人がいるが、これは多くの場合、虐げられた状態で樹木が植えられており、自然とはいい難い。それよりも自然らしきものが存在しているというべきであろう。このように自然という言葉の意味も非常に曖昧な状態にある。しかし、これも分ったと仮定しても、「環境学」が何であるか、依然としてみえてこない。そこで、ある人の力を借りて環境学なるものを考えてみよう。高橋氏によると、「環境学は人間を主体とすると、人間にとっての環境を対象にする学問であり、人間にとっての環境とは社会環境、文化環境および人間を取り巻く自然環境」を指すようである。この場合の自然環境の中には当然、人間と他の生物とが共有している環境をも暗黙のうちに考慮に入れられていると考える。それでは、人間にとっての環境、自然環境だけを対象にした学問とはどのような学問であろうか、またまた、分らなくなってくる。しかし、あえて独断と偏見によると、多くの研究者が定義している「環境学」は、「人間を取り巻く環境の構造を明らかにするとともに人間活動が環境に与える変化とそれが人間へのはね返りとなるプロセスを明らかにする学問」のようである。したがって、実践的な学問といえる。しかし、これでは存在する現象の原理の探究でもなく、また、個別的、かつ具体的な課題の解決にはならない中間的性格を持った学問となりはしないかと危惧される。ただ、環境学とはそんな学問なのだと言われれば、「ああ、そうですか」となる。これに対して、私的には、皆が環境学ばかり追究しても、環境問題は解決せず、やがては人類や他の生物の滅亡へと進むのではないかと心配である。それではどうすればいいのだろうか。少なくとも問題解決に向かって努力するしかない。

 つぎに、視点を変えることにする。わが国の環境に対する一般的認識は、公害発生の華やかな時代(1970年頃)に始まったと言われている。しかし、歴史はもっと古くに遡ると考えている(例えば、1890年代の鉱毒問題がある)。一方、環境を重視しないで高度成長と発展を目指した結果として環境破壊を引き起こし、その後に環境保全および修復のためのつけを残してきた。その結果として、未だに環境が高度成長期以前の状況に回復していないのが現状と言えよう。したがって、環境学は重要であるが、やはり存在する現象の原理の探究および個別的、かつ具体的課題の解決を目指す環境科学に取組まなければならない時期に至っていると言わざるを得ないだろう。それでは、環境科学とは具体的に何をする学問であろう。ある人の言葉の説明を借りると、「環境科学は、もともと公害問題をきっかけに発達した学問分野であり、人間やその他の生物を取り巻く無機的環境と人間の社会環境をも含めた広義の環境を研究の対象とし、物理学、化学、生物学、医学、地理学、生態学と言った自然科学にもかかわる学際的総合科学」であるようだ。この定義で環境科学がどのような学問であるのか、本音のところ、分ったようでよく分らないが、どうも種々の環境を対象に研究を行う学問らしく思われ、多分それぞれの研究者によって異なるであろう。しかし、対象とする環境は公害環境だけであると言う認識に立っている研究者が大多数のようである。例えば、地域レベルの農薬による環境汚染、チッソやリンによる水質汚染、自動車などによる大気汚染、ごみ公害などを指し、地球レベルのCO2による温暖化、酸性雨、フロンガスによるオゾン層の破壊、砂漠化などをあげている。これに対して、私の認識では、公害環境は環境の内の一部であると考えている。このことは先に述べたように、主体の設定のしかたにより対象とする環境が異なるからである。そして、このような環境を意味する認識が今や必要とされているといっても過言ではない。

 最後に、私と「環境という言葉」の出会いを述べる。私の専門は灌漑排水学であり、これは土壌物理学、微気象学、水理学、水文学、地下水学、水質学、土地保全学、土地整備学、植物学等を基礎にした学問であると考えている。初めて研究教育職についた時期は、社会が公害問題で揺れていた。その頃、身近なところで環境調節工学とか環境化学という研究組織が生まれた。その時、「環境とは何か」という疑問を持ったのがそもそも環境との出会いであったと思う。そして、ある時、その組織の教授に「灌漑排水学は環境を対象にした学問であると考えますが、如何でしょうか」と尋ねましたところ、「その通りだが、君たちの仲間は残念ながらそのようには認識していないよ」と言われました。その時(1972年頃)以来、公害問題だけが環境問題でないことを自覚しながら、今日まで歩んできた。しかしながら、周囲には、環境汚染や破壊だけが環境問題だと信じ込んでいる人が若手から長老にわたり多数存在している。これが現状であり、これが環境に対する認識の程度と考えられる。このように環境学や環境科学という学問は発展途上の学問であり、まだ、確立していないといえるも当然であろう。しかし、環境に対する認識のギャップは研究が進むにしたがい縮まるだろうと思う。そう願いつつ、暗中模索しながら環境を研究対象とする学問に取組まなければならないと考えている。

 散漫、かつとりとめもないことばかり書き綴ってきたことを後悔しながらも、少しでもお役に立てればと思いながら終わりにしたい。