環境学のフィールド再考

土屋正春

環境計画学科

環境社会計画専攻



1.

 あの水俣病から、罹患した方々には申し訳のない表現になるのだが、社会のあり方を分析し考察する上では極めて多くの示唆を得ることができるというのは間違いのないところだ。実際、優れた研究が水俣という一地方都市に発生した「奇病」の発見に始まる不幸な歴史の裏側に光をあててきている。

 そうした作業を繰り返すというのではないが、どうしても触れておきたい場面がある。国の代表が現地水俣を訪れた際に、地元の女性が言葉を述べる場面がそれだ。

 昭和34年11月、超党派の国会議員からなる調査団が水俣を訪れた。水俣工場付属病院の医師により「奇病」が発見されてから5年後のことだ。この議員団を駅頭に出迎えた地元代表の女性があいさつの言葉を述べている。

 「国会議員のお父さま、わたくしたちは、あなた様がたを国のおとうささまともお母さまとも思っております。

 普通ならお目にかかれるわたしたちではないのに、陳情申上げるのは光栄であります。子供を水俣病でなくし、夫は魚をとることもできず、泥棒をするわけにもゆかず、がまんしてきました。わたくしどもは、もう誰も信頼することはできません。でも国会議員の皆様が来てくださいましたからは、万人力でございます。みなさまがたのご慈悲で、どうかわたくしたちをお助けくださいませ。」

 当時、長く続く町の混乱と生活の苦しさのさなかにあった人々が訴えたかったのは何なのか。彼女がその全てを代弁していると考えるのはとても無理だが、こうした言葉が選ばれ、並べられした背景に寄せる思いは重苦しい。

 国の代表に現地の女性が物言いしたのは何もこの場面だけではない。手元にあるテープの声を文字になおすと次のように並んで現れる別の場面がある。

 「どんな地獄やったですか。本当、あの地獄は人に言えたもんやない。20、20代でした。現在53才ですが、30何年もたって、体はだるくなり、体はいたくて、眼もみえん、耳も聞こえん。

 私達が、何でこんな苦しまなければならんのですか。何の悪かことしたんですか。自然のもんを食べて、魚介類を食べて、こんな体になって、何で身のせまい思いして生きていかな、ならんのですか。

 長官、あんたも人間なら、日本国民の代表になっている環境庁長官なら、人間として、長官として、水俣病のこの患者を救済してください。テーブルについて、和解を、話し合いを、してください。救済をしてください。

 環境庁、お願いします。本当、お願いします。お願いします。」

 長官の現地入りは、患者の認定をめぐる問題を背景にした役所の中の慎重論を押し切って自らの強い意向で実現した。神妙になどというよりはるかに固い表情で約3メートル先にその環境庁第24代長官北川石松がいる。「あんたも人間なら」と胸に迫る思いをそのまま腰を折るようにしてぶつける。その言葉とその姿とをスクリーンに追って、満員の教室に緊張の数十秒が流れる。

 ここに挙げた二人の言葉の間には30年という時間の流れがある。たとえばこうした時の隔たりに支えられている世のありさまを30年という両端でキャッチする、そうする努力がどれほど必要なのかをどこまで鮮明に学生達に伝えることができるか、これが教壇に立つ側の課題なのだ。要は、学生の視野をいかに拡げることができるかに他ならない。

2.

 ちょうど水俣駅頭でのあいさつの数週間前、全日本自動車ショーが東京で開催されていた。回も重なり、第6回になっている。毎回のように会場が変更になった時期だ。発売開始以来2年を経たプリンススカイラインがその声望いよいよ高くと言われだした頃だが、当時のニッサンのカタログに踊る文面には「ダットサン対米輸出1000台突破!!」とある。どの会社のカタログもハンドルに手を置いているのは若い女性で、ネッカチーフを風になびかせているところまで似ている。翌々年にはホンダが世界レースランキング第1位に踊りでた勢いで月産85000台の世界1の生産量に達し、そして今、日本の自動車産業は毎日毎日3万台近くを生産するようになった。

3.

 会社という名のモノが登場するのはそれほど古い話ではないが、アメリカの場合で言えば、その性格も今日のものとは大違いであった。道路だの橋だの、共同体には不可欠ながら初期投資額が大きく、共同体の財政では手に負えない公共的性格の事業に、独占的な権益を与えることで私的資金の投資を促すために特別に許可されたというのが大勢であった。だから会社の設立1件ごとに議会で設立許可のための制定法を必要とした。だが1800年頃から公共的性格を備えてはいない会社が確実に増える。経済社会の到来である。

 そうした社会の姿を世界中の人々が追いかけている。そして経済社会の先端を行くアメリカでは、遺伝病の有無を検査することを法律で義務づける州が増えだしている。生命保険への加入から外すためだ。保険金の給付コストを考えれば、発病が予定されている者を加入させる手はない。

4.

 5日ごとに100万人の人口が増えている。皆が、ほぼ例外もなく、ネッカチーフをなびかせてハイウェイを疾走できるような生活を追っている。が、どんなに働いても、南北問題という構造的な阻害要因のために、貧富の差は並行移動するだけのように見える。そうした生活の果てに何が待っているのか、いわゆる先進国ではかなりの人々は知らされている。そこで、人々を導くために数々の理論が提供されてきているが、いまだ人々を覚醒させた実績はない。環境学は栄えているのだが、そうなる程に環境は廃れる一途をたどっているのではないか。

 「あんたも長官なら」といった女性は、胎児性水俣病となった我が子から、どうして俺を産んだのか、どうして俺を育てたのかと責められ続けた。これほどの不幸はあるまいに、この国でほんの3〜40年前におきたことが、それだけに原因も結果もはっきりしていることが、ふたたび三たびこの世で繰り返されるのはなぜなのだろうか。

5.

 「環境」にせよ「生命」にせよ、そして「女性」にせよ、きわめて現代を象徴するテーマではある。単に同時代性があるというのではない。環境保護を考えると生物の権利の問題に行き着き、動物の権利を考えると主体性の問題に行き着き、それは、たとえば、重度障害を有する胎児をめぐる容認される死の問題に連結する。この連鎖の彼方には、ヒューマンから、そして、尊厳ある人から薄皮をはがれるように1個の生物組織体に近づいて観念される人々、そうした人々の姿があるような気がするのだがどうだろう。