「環境学」の難しさ

富岡昌雄

生物資源管理学科


 「環境学」とは人間活動と自然環境との相互関係を対象とする学問分野である。人間活動が自然環境に対してどのような影響を与えるか、人間活動によって引き起こされた自然環境の変化が人間社会に対してどのような反作用を及ぼすか、といったことが課題になる。

 人間活動の規模が自然環境に比べて小さかったうちは、両者を関連づけて考える必要は少なかった。人間活動にとって自然は事実上無限であり、自然にとって人間活動の影響はとるに足りないものであった。

 人間活動の規模が自然の環境容量に比べて無視できないくらい大きくなった結果「環境問題」が発生し、「環境学」が求められるようになった。このまま拡大を続けると、資源枯渇、あるいは環境汚染によって人類は必ず行き詰まるであろう。人類が環境問題を解決しうるかどうかは、人間活動の規模を「矩を越えない」範囲にとどめておくことができるかどうかにかかっている。


 これまで人類は、ひたすらその経済活動の規模を拡大させてきた。人口は絶えず増加し、物的な生産・消費の規模はそれ以上の率で拡大してきた。とくに、資本主義と呼ばれる体制が成立してからは、経済活動の規模の拡大、すなわち経済成長は、体制維持のためには欠くことのできない条件であると見られるようになった。絶えず成長し続ける経済、それが資本主義である。企業は常に売り上げの増大を目指し、市場占有率の拡大と新市場の開拓を求めて商品開発に励んでいる。

 ところで、一般に市場経済のもとでは「消費者主権」が貫徹すると言われる。消費者が市場で示す支払い意志を指標として、生産者は何をどれだけ生産するかを決定する。様々な新製品が売り出され、その売り上げが増えるのは、消費者がそのような財の消費拡大を欲しているからである。消費者主権を旨とする経済民主主義体制のもとでは、経済成長を引き起こしている原動力は、常により快適で便利な消費生活を求めてやまない消費者の購買行動にあると言うことになる。たとえ消費者の欲望なるものが企業の宣伝活動によって意図的に創出されたものであったとしても、やはりそういうことになる。

 とすれば、経済成長を抑制し、結果として環境を守ることができるかどうかは、消費者一人ひとりが日々の物的消費活動のあり方を変えることができるかどうかにかかっている。これは一人ひとりが、当面の快適さや便利さを犠牲にしてでも、環境を守るために物的消費の拡大を控えるよう行動することを意味している。言い換えれば、将来世代のために自分の利益を進んで犠牲にすることを意味している。経済民主主義を前提にして経済成長を制御しようとすれば、こうするよりほかにない。しかし、人がそれほど利他的になると期待することができるのであろうか。


 経済成長の制御の主体を国家権力に求めるのも一つの方法である。確かに、これまでの国家の経済政策は経済成長の維持拡大を至上命令としてきた。これを成長抑制的な政策に変えさせることができれば、経済の無際限な拡大に歯止めをかけることができるかもしれない。

 しかし、現代の民主主義のもとでは、経済政策も国民の求めるところに従って運営されなければならない。国民の多くが雇用の確保と所得の増大を求め、そのための前提条件としての経済成長に期待しているとすれば、民主的な政府ならば経済成長政策を放棄することはできない。

 たしかに、経済成長は一見誰にも不利益を与えることのない、都合のよい社会的選択である。とくに、「分配の不平等」や「貧困」という社会問題を解決する手段として、成長はきわめて好都合である。富者の取り分を減らすことなしに貧者の取り分を増やすことができるからである。この成長によって相対的な格差がさらに拡大することになったとしても、成長は貧者によっても歓迎されるであろう。

 政治的民主主義のもとで国家が成長抑制的・環境保全的な経済政策をとりうるためには、主権者である国民一人ひとりが自分の当面の利益よりも将来世代の利益を優先させるという判断をするようになっていなければならない。こうして、ここでもまた我欲を追求するという人間の本性に突き当たる。


 より快適で便利な生活を追い求めようとする本性を、人間が簡単に変えるとは期待しがたい。確かに、「環境に優しい商品」が一定の範囲で受け入れられることはある。しかし、その市場規模は限られている。環境保全を主要な理念とする政党が議会に進出することもある。しかし、そのような政党が政権を握るには至らない。

 かといって、人類が近代に入ってようやく手に入れた「民主主義」という価値基準を、そう簡単に捨て去ることもできない。あくまで「民主主義」を前提に、環境問題の解決策を考えていくしかない。ここに環境問題の難しさがあり、「環境学」の課題がある。


 ヴィトウセクら(註)によれば、すでに人類は全地球の陸上の光合成活動による純一次生産力の40パーセントを直接利用するか、管理下に置くか、あるいは破壊してしまっているという。光合成生産物は人類を含むすべての従属栄養生物の「命の糧」である。このまま進めば、人間活動の規模が現在の2倍半になると、陸上の全光合成生産物が人類によって利用されることになる。地球上の光合成活動の規模を目に見えるほど拡大できないとすれば、まさにこれが人類の「成長の限界」になる。実際の限界はすべてが人間のものになるかなり手前にあると考えられるので、成長を止めるまでに残された時間はほとんどない。


 環境問題とは、見方を変えれば、現在世代と将来世代との利害の対立によって生じる問題である。現在世代の利益のために自然を濫用すれば、不利益を被るのは将来世代である。この将来世代は民主主義社会の主権者たる地位を与えられていない。現在の市場において購買力を行使し、支払い意志を示すこともできないし、現在の議会に議員を送り込むために選挙権を行使することもできない。もし何らかの方法で将来世代に経済的・政治的民主主義の主権者たる地位を与えることができるのであれば、環境問題に対処するための手続きの輪郭が見えてくるであろう。

 人間活動の限りない膨張とそれによって引き起こされる環境破壊の原因が快適で便利な生活を求めてやまない人間の本性にあり、人々のそのような欲求がそのまま経済や政治に反映される民主主義の制度にあるとしても、環境問題に対処するためには必ずしも民主主義を否定し、たとえば「エコ・ファッシズム」の立場に立つ必要はない。民主主義を一層拡大すること、すなわち、将来世代にも我々と同等の主権を認めることによって、環境問題に対処することもできるのである。ただし、これが具体的にどういう形を取るのかは、まだわからない。

(註)Vitousek,P.M. et al. Human Appropriation of the Products of Photosynthesis, Bio-Science 36(6), 1986, pp.368-373.