環境意匠論の視座

杉元葉子

環境計画学科

環境・建築デザイン専攻


 近代建築はその出発点において、旧い歴史の中に新しい時代への夢を開くものだった。今、初期の近代建築の中に立つと、そこに展開されている数々の試行に、創造するものとしての人間の可能性への信頼が伝わってきて素直に感動する。近代建築は、しかしその後手法が普遍化され、固有の文化への反逆という根を失って世界中に拡散し、機能を根拠として空間を機械的に量産する手法となった。基盤にあるのは、創造者としての人間への信頼ではなく、近代的合理性の普遍性への信頼である。

 建築の設計理論としてのこの近代合理性の限界への指摘は早くからあった。建築の楽しさを排除する近代精神による人間疎外に対し疑問が出され、普遍的論理ではなく場所や歴史の個別の論理が、合理性、一貫性ではなく多義性、曖昧さ、非合理といったものが人間のための空間の価値として主張されて建築のポストモダンが始まった。

 しかし、人間と空間の関係を根源から問い直す視点を開くかに見えたポストモダンの試みの多くは、現実には表層でだけ、商品化され得る場合だけファッションとして華やかに遊びを展開しながら、建築の根拠を市場原理や効率などの近代論理の隠れた支配に委ねてしまっている。建築におけるポストモダンの限界は、一つの論理というものへの不信から「方法」そのものを自らに否定し、短絡的に「何でもあり」の世界を開いてしまったことにある。無制約の自由が真に自由な社会を保証しないように、何でもありというスタンスは、現実には空間の豊饒さを支える基盤を創り得ず、結局その方法論の真空に経済の論理という形で近代論理を再び呼び込んだ。必要だったのは、世界の多様性を調停しその共存の様態を豊かさへ昇華させる「方法」を再び築くことだったのである。

 今日、ポストモダンを経験しもはや近代論理を信じない精神が、総体への方法を失い泡沫のような形態を無制限に生みだしている。一方、環境の危機に対する省エネルギー、省資源等の技術主義に傾いた取り組みのもとでは、近代の論理に対して行なわれた異議申し立ての意味は、真摯に問われることなく環境問題という大義のもとに却下されようとしている。しかしそうして今創られようとしている「環境」とは一体何なのだろうか。

 これは建築の分野だけの問いではない。今日、「環境」を社会のキーワードとして科学・技術を中心とした議論が展開される陰で、環境論はその原点において「全ての人は生きる権利を持つ」という理想を追及する人間世界の創造の問題だという視点が看過されているように見える。「全ての人が生きる」ということの意味は、現実の世界において、いうまでもなく未だ了解されていない。

 技術を重視した私達の現在の環境への取り組みは、一つの合理のみを認める世界というものの構造的矛盾を省みずに、本質的に近代的合理をより洗練させて拡張するという構図を持っている。サステイナブルという語がもてはやされているが、これも時として私達が持続させようとしているのが何なのかを不問に付し、世界の現在の枠組みを延命しつつ環境論における本質的な問いを覆い隠す。創造を、単なる技術論にしてしまうのだ。

 近代以降の人間は「近代的合理」という言葉で自分達の承認する世界を限定してきた。近代的合理とは、特定の世界観に立つ特定の社会システムにとっての合理であって、限られた射程しか持たないにもかかわらず、特に客観を主観の上位に置く科学を基盤として普遍的真理であるかのごとき地位を得てきた。私達の日常はその根底から近代的合理に支配されており、普遍的真理という概念の思想の世界での解体も有効ではなかった。

 近代的合理のこの無条件の是認が、実は今日の環境問題の根本にある、といっていい。

 近代的合理の普遍性を前提することによって、進歩を信じ、効率や経済成長を絶対視し、それを世界に敷衍することを当然視する社会が成立し得る。その枠組みにおいて価値に序列を認めることで、自然の破壊や、文化の崩壊と社会構造の解体に至る急激な「近代化」も容認される。水俣の悲惨さは日本の高度成長の国民的是認の陰でのいわば必然であり、地球南北問題は近代的合理の優位が地球規模で展開される過程での必然であった。環境の現在は、いかなる根本的な対策も社会と文化の問題として南北問題を解決しないかぎりありえない状況に至っている。

 異文化が混在してきた私達の世界は、本来、一方から見ればあるいは非合理でしかない世界観が交錯する場であった。そこにおいて、一部の人が描く「合理的」世界観が全ての人が所属する世界の土台たりうるのかが問われるべきである。その「合理」に環境の科学という視点を加えたところで問題の構造は変わらない。「全ての人は生きる権利がある」という命題の指し示すことを、「全ての人」の多様性、「生きる」ことの豊饒さにおいて了解し、それを現実とする方法を真理としてではなく合意として獲得していくことが環境論の本質なのではないか。それを可能ならしめる前提として、私達は自らを規定する世界観を自覚し、その普遍性への盲信から脱する必要があるだろう。

 現在私達の生活は技術の進歩に即応する大量生産・大量消費の経済システムの上にあり、「近代合理性」に強く規定された私達の世界観はこのシステムが支える生活の効率や利便性を至上価値とする。人間は豊かさを求め創造する動物である。地球環境の危機が外圧としてこの活動を抑制することは、生きることの意味が閉塞した社会を意味し、しかも規制が力を背景とする以上強者の納得する線でのみバランスする。そこに「全ての人の生きる権利」が十全に開花すると期待し難い。この状況を解くために、内面から近代の呪縛を解き豊かさの概念を開放することが必要ではないか。

 これは机上の抽象的議論から生まれるものではない。具体的試行を重ねることで私達は新しい価値を少しづつ納得していくことができる。環境問題に直面しているからこそ、世界に新たな枠組みを導く豊かさとして私達のそれぞれが今何を創造できるかが核心となる。技術もこの文脈に置かれることで意義を獲得する。ディープ・エコロジーは自然状態に至る過程で強者の論理が優先する現実があるかぎり有効性を持たない。豊かさの新しい概念が「生きる権利」を真に開くものであれば、それは価値を一つに収斂するのではなく、多元な価値を時間的にも空間的にも動的に共存させる方法をその基底に持つだろうと私は考えている。

 建築の世界でも、技術の進歩が機能の急速な変化を呼び起こし、機能の優先と建築の社会性への無理解が建築の使い捨てを必然化している。技術の開発はこの状況を全く救わない。状況を断ち切るためには、効率を求める近代の論理に代わる空間の根拠を、耐乏ではなく豊かさとして社会が納得することで、枠組みが転換される必要がある。

 私が今育てようとしている「環境意匠」という視点は、空間形成の立場から、豊かに異世界を包含する世界を成立させる具体的方法論を摸索するものである。「環境」と「意匠」という言葉には、それぞれ、自己完結的に構築された小宇宙ではなく多元の世界を自己の世界とすることの意義、思想を形態と為すことの意義への思い入れが込められている。空間の中に身体を持つ不合理な存在としての人間のリアリティが原点におかれる。環境を学ぶ全ての学生にも今、各自の立脚点から新しい価値の創造に参加し、私達を縛る世界観に革命を起こして欲しいという願いを伝えたいと思う。