生活・環境イメージと空間デザイン

迫田正美

環境計画学科

環境・建築デザイン専攻



1.生活行動と事物・環境の意味

 私たちは、日常生活を営む中で身のまわりに存在する諸々の事物に対して様々な意味を与えながら(意味を読みとりながら)個々の行動を行っている。その場合、自分自身の身体的状態(内受容感覚)を含む生活環境の状況に応じて、一連の行動の中での事物の位置づけは変化する。

 ミカン箱は当然ミカンを梱包して保存、運搬などを行うためのものであるが、箱そのものとしては状況に応じて色々に使われるわけである。現代の日本ではミカン箱を見て勉強机を連想する学生は少ないと思うが、「蛍の光窓の雪……」といった台詞がまだ実感できた時代をイメージすれば、畳敷きの和室の窓辺に置かれたミカン箱は文机に見立てられるし、日曜大工で一仕事終えたお父さんにとっては休息をとるイスとして、高い棚上に置かれた鍋を取ろうとしているお母さんにとっては踏み台としての姿を現すといった具合である。

 これらの場合、行動の目的(読み書き、休息、等)は素朴であり、箱の果たす機能もほぼ物理的作用(物体の支持)に限られているわけであるが、現実の生活空間の中では、行動の内容も事物の意味もより複層的になることはいうまでもない。

2.行為と場所のイメージ(実効性と表現性)

 チンパンジーを使ったケーラーの有名な実験では、天井に吊されたバナナ(身体的に手の届かない状況)を、箱を組み立てることによって手の届くものへと場の状況を変貌させ、上手に餌にありつくチンパンジーと、それを眺めている仲間の写真がよく例に挙げられるが(写真1)、空間デザインの視点から見ると、この写真は大変示唆的である。右の写真でまさにバナナに手を伸ばしているチンパンジーにとって、箱を積み上げる行為も、それを登って手を伸ばす行動も、餌を取るという実効的効果を持つことはいうまでもないが、彼にとってこの行動が可能となるには、始めの状態(箱がばらまかれ、手の届かない位置に餌がある)から最後の状況(箱の上で手を伸ばして餌を取る)の中での自身の行動(身体感覚)と場所の状態をイメージしていなければならない。

 このように場所(環境および身体)を可能性の領野として位置づけることができるということが環境と行動との第一の接点である。

 また、餌に手を伸ばす仲間を眺めているチンパンジーの存在は、行為と環境の表現性という視点を喚起する。個体にとっての学習という主題はもちろんであるが、空間デザインの視点から見れば行為と場所の表現性はより切実である。

 どのような行動も行為者本人に身体的・心理的感覚を与えるだけでなく、観られることによって他者に対して何某か意味あるものとしてとらえられているのである。(この意味で建築を含む環境デザインは制作という行為の結果として、観られるもの・生きられるものとしてあることは同様である。)餌を取るチンパンジーにとって不安定な箱の上で体を伸ばす動作は、餌にありつくという期待と共に緊張感と不安を感じずにいられないが、その状況の全体を眺める仲間にとっては、積み上げられた箱の有用性(建築の分野ではこれを一般的に機能と呼ぶ)とともに、その危うさや積み上げるという行為の意図、更に餌を取るために選ばれた行動のスタイル(作法)なども同時に観られ評価されているのである。

3.行為と環境の相互依存

 ここで重要な点は、行為のイメージと環境のイメージとが常に同時に捉えられ、相互に関連しあいながら具体的な行動が行われていること、つまり行為(の意図)が環境に意味を与え、環境がそこでの行為を規定するという相互依存関係である。

 走り幅跳びの競技場は、国際大会クラスであれば選手が全力疾走した後に10m近くジャンプすることが予めイメージされている。選手は助走路での走行フォームや歩幅、トラックから伝わる反発力、ジャンプの瞬間の筋肉の緊張や着地の衝撃などをイメージトレーニングする事ができるのであり、(写真2)競技場はそのように設計されている。逆にそれほどの跳躍力のないものにとっては全力でのジャンプすらおぼつかないだろう。

4.生活・環境のイメージ

 人間的な活動の中での行為と環境との相互依存、表現性ということを典型的に体現しているのは、やはり茶室の空間であろう。露地から待合、躙口へと続く庭の空間を含めて、炉、棚、床などの舗設や意匠の隅々にまで、折々の茶会に対する主人の工夫や心遣いが込められている。客はいわゆる作法の心得はもちろん、一期一会の掛け替えのない瞬間を共に創り上げる機微を、茶会の空間に瞬時に汲み取りつつ行動する。そこでの行為に必要とされるべきものは(幅跳びにおけるような)身体的能力ではなく、そこに貫かれている美意識や歴史的に培われてきた自然観、あるいは作法としての行為の決まり事(常識)等への理解である。

 行為の価値はこの常識という共有イメージによって測られる。同じ行為が、共有されたイメージとしての環境に応じて<粋>なものにもなり、また、無礼なものにもなり得るのである。

 従って、ここで謂う環境イメージとは極めて広い概念である。それは日常生活を営む物的な空間構成要素の総体であり、行動に際して受ける身体感覚やその際に環境に与える物理的・心理的意味づけの総体であり、行為のスタイルと価値を決定する共有イメージとして我々が持つ行為や身体、場所等々について我々の身体に染みついた曖昧模糊とした常識などであり、決して単なる心的映像や単なる自然環境そのものでもない。

5.共有される環境イメージの創造(発見)

 最後に空間デザインの契機の一つとなる、共有される環境イメージの例として、歴史的に定着している景観である近江八景を例に挙げてみよう。(写真3)は廣重の描いた「粟津晴嵐」の錦絵である。ここで我々を魅了するのは単なる視覚的映像の美しさではない。風に吹かれる松林や満帆の帆に風をはらんで湖上を進む船は、近江の人々の生活と密着した湖上交通や漁労生活のいち断面であり、限りなく広がる湖面と山並みを背景に吹き抜ける風を身に受けつつ感じる風景の全体に私たちは心打たれるのである。

 問題は、現代にこの生活像と風景を再現することではなく、現代という時代の生活像にふさわしい新たな風景を発見することだと考える。

 生態系への配慮や地球的規模でのいわゆる環境問題が、それこそ常識になりつつある現代に於いては、それに裏打ちされた生活像が構築されなければならないし、環境デザインの方法論は、この新たな生活・環境イメージに裏打ちされたものとして確立されなければならないのである。


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写真1

写真2

写真3