農耕地の審美的価値

奥野長晴

環境計画学科

環境社会計画専攻


 『水田をまとめて大きくし、大型の機械の導入により稲作の生産性を高めるための事業ーほ場整備事業ーに対して、1980年以来、毎年三千億円を越える公費がつぎ込まれている。一方米の作り過ぎを抑えるための減反政策に1970年以来毎年1千億円を使っている。整備したばかりの水田が休耕の対象になることもある。これは壮大な無駄ではないか(朝日新聞12月15日)。97年度に2%下げるはずの米価をわずか1.1%の低下にとどめ、あまつさえ減反農家に百億円を配分することにした。一体何のためにこれ程多額の公費を農業に注ぎこまなければならないのか?』これは社会計画を生業とする者にとって無視できぬ疑問である。私のクラスでこのことについてデイベイトをした。その要約はつぎのようである。

A:『主食の自給のためには国際競争力から農業を保護しなければならない。だから公費による援助は必要である』

B:『備蓄米は200万トンもある。これ以上増やさないためには5万ヘクタールの減反すら必要だ。これから分かるよう米に対する需要は高くない。食料は必要に応じて国際マーケットから自由に買えばよい。しかもこれだけ公費を投入し続けても、オリジナルカロリーの自給率はせいぜい46%、自給なんて所詮は絵に書いた餅ではないのか』

A:『世界人口は猛烈に増えている。近未来の世界的食料不足は目に見えている。天候不順で輸出国が不作になると、たちまち食料を自由に購入できなくなる。その日に備えて、少しでも自給率を高めておく必要がある。もっといえば、農業生産物は太陽エネルギーを使って作られる。農業こそ創エネルギー産業なのだ』

B:『アメリカなど先進国の農業では、10カロリーのエネルギーを使って1カロリーの農業生産物を作っているに過ぎない。日本の現在の農業は必要なだけ石油がいつでも入手できることが前提になっている。農業が創エネルギー産業といいたいなら、かっての人力農業にもどらなければならない。これならば1カロリーのエネルギーを使って10カロリー穀物の生産は可能だ。外国から石油などネルギーの購入を前提とする限りにおいて、米の完全自給なんて笑い話ではないか』

A:『農業は自然を相手にする生産手段である。これこそ今流行の自然に優しいといえる唯一の産業である』

B:『農業は決して自然環境にとって優しくない。農業では目的とする作物の生育にとって障害となる物を排除する。それらはすべて雑草、病虫害、害獣として扱われる(日本農業に明日はないー小笠原裕)。自然のエコロジーを排除し人工の環境をつくることが農業の姿である。それだけではない、農耕地は汚濁の発生源でさえある。琵琶湖流域を例にすると、森林を含む農林地や道路などから流出する(ノンポイント)汚濁物はCODで全体の45%、窒素で50%、燐で20%にに相当する。ドイツ連邦全体の炭酸ガス負荷のうち農業に起因する部分は3%である(ドイツにおける農業と環境 アイロス・ハンゼンフーバー)』

 このデベイトでは、公費を農業に投じることの説明として「米の自給率を高めるため」だけではいかにも旗色がわるい。もっと別の理由が必要である。日本は工業に力を集め、付加的価値の高い工業製品を世界に売ることにより、今日の豊かさを作った。農業と工業の生産性の差が豊かさを生むのだ。農業国では絶対にだめである。アジアの農業労働者の労働の厳しさと収入の低さを見ればことはすぐわかる。しかし、日本の繁栄がいつまで続くのか? 日本の工業が競争力失なって、円価が弱くなり、農業生産物も石油も国際マーケットから購入できなくなったとき、どうするのか? 余剰となった工業人口の受け皿が農業である。日本の人口の大部分が人生の大部分の時間を食料生産に使わざるをえなくなる。開発しなければならないのは化石エネルギーとは無縁で太陽だけに頼る人力農業である。この日のための準備のほうが石油垂れ流しの下での自給率の向上より、はるかに、現実味があると私は考えている。

 農業に多額の公費を投じるもう一つの別の理由に農業の多面的価値がある。「日本の水田の保水力はダムに換算すると1年当たり2.3兆円に相当する」がその一例である。今一つ別の多面的価値として審美的機能をあげておきたい。それは農耕地の美しさを評価し、それを高める手法を開発することに対応する。春先、荒神山の裾から滋賀県立大学のグランド裏まで埋め尽くすレンゲ畑はすばらしい風景を作っている。私の妻はこの風景を見ることを楽しみにして東京から彦根にやって来る。田沢湖を背景にした秋の夕方の稲田の美しさは感動的でさえあった(彦根市では秋の深まるはるか前、稲が黄金に色づかないうちに刈り取っていた)。農耕地を美しく感じるのは私だけではない。英国の写真家ジョニー・ハイマスは『この国は本当に美しい、初めて日本に来たときに一目ぼれした、深い山奥の棚田が作る複雑な陰影、雲海を背にゆれるススキの穂、はさ木に稲の束をかける北国の農家。私が一番楽しいのは日本のふるさとが残っている世界。それを一番よく見ることができるのが田圃です。(読売新聞1月12日)』

ドイツのウルツブルグでは、丘の上の古城を美しく見せるために丘の麓のフドウ畑の樹の配列の仕方にルールを定めている。『ヨーロッパの風景は農業が守っている』とさえEU農業委員フランツ・フィッスラーはいい切っている。このようなコンセプトは日本ではまだ市民権を得ていないが、国土を美しくするための農業の在り方という考えがあってよい。実際、ドイツのバイエルン州では30ヘクタールの山間の農地に対して風景を守るための補助金として年額150万円が支給されている。アメリカの農耕地は美しくないが、イギリスのそれはどこでも絵になるほど美しいという。農耕地の美しさを際立てする要素はなにか? "農耕地の審美的価値"を高めるための方法を確立することが環境計画、とりわけ建築デザインの課題である。

 ヨーロッパ文明は森林を切り開き耕地化することによってできあがった。いまさら原生林の時代のエコロジーを取り戻すのは不可能である。しかしながら、もし農耕地の10-20%を非耕作地とし、小川や茂みを残すことができれば、ビオトープが再生し、ヤマウズラの孵化そして生育が可能になるなど、自然の豊かさが維持されるという。日本でもそれに近い例を新潟市の郊外に見ることができる。すなわち、稲刈り後の水田が瓢湖に集まる白鳥の餌場になっている。ここでは「裏作をしないまま放置した農耕地」が餌場として重要な意味を持つ。このように「ビオトープの確保から見た農業のありかた」を標準化することが環境社会計画を担当する者のつぎの課題であると考えている。

 化石エネルギーに依存する「他栄養型大規模農業(奥野の造語)」のための国費投入はもうよい。どんなにがんばっても、生産コストではカナダやアメリカの農業に勝てるわけはない。エネルギーまで含めると、日本で食料の100%自給なんてものは宗教に過ぎない。それよりも、工業化とともに日本の国土が失った何かを少しでも回復するための補助金であるとの位置付けができれば、日本の工業が稼ぎ出した富の一部を農業へ投入しても、容認できようというものである。


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彦根市郊外のレンゲ畑は美しい


丘の上の狐城を美しくするブドウの林