知識とそれを超えるもの

仁連孝昭

環境計画学科

環境社会計画専攻


 ものを見て、それが何であるかを認識するためには、そのものに対する何らかの知識がすでに主体の側に存在していることと、それにたいして何らかの関心があることが必要である。もしあるものを見て、それに対する知識がぜんぜんないとき、それを認識することはできない。それがまったく眼に入らなかったことと同じである。私たちは、表面が赤くて、光沢があり、硬そうで丸い果物を見たとき、それがりんごであると認識できるのは、すでにりんごを見たことがあるか、それを食べたことがあるか、もしくはりんごに関する知識を文献やひとの話からすでに得ているからである。それと同時に、そのりんごのようなものに関心があるときである。もし、食べ物や果物に関心がなければ、その赤い物体はまったく眼にとまらないかもしれない。

 この人間のものごとにたいする認識の仕方には、したがって、次のような特徴があることを銘記しなければならない。

(1)ものごとを適切に(これは客観的という意味ではない)認識するためには、それに関する適切な(行おうとする行為に必要な)知識を持っていなければならない。

(2)人間はすでに身につけている知識や価値観から自由にものごとを見ることはない。常に既存の知識や価値観に縛られてものごとを見ている。それゆえ、既存の価値観から自由でなければ、新しいものは見えてこない。

 この2つの特徴は、ものごとの認識に関する矛盾した側面を表わしている。この矛盾した側面を十分に理解し、知識に縛られることなく、知識を使いこなすことが、とりわけ環境学に求められている。

 なぜなら、環境学が扱おうとしているのは、目的が与えられており、その目的を達成するための最適な解をみつけだすという問題ではなく、目的設定自体をも問題対象に含んでいるものを扱おうとするからである。

 たとえば、ゴミ問題では、ゴミを最終的に処分する(捨てる)場所が有限であるにもかかわらず、ゴミは毎日大量に排出されてくる。ここで、有限な処分場をいかに長持ちさせるかが、自治体にとっての課題(目的)となる。そこで、ゴミを焼却して最終的に処分されることになるゴミを減量化することが一般的に採用されている。この場合、すべて焼却すれば最終処分されるゴミの量は確かに減少する。しかし、これで問題が解決したわけではない。場合によっては、ゴミの焼却から有害な物質が生成されることがある。また、発生したゴミを焼却して減量化することができたとしても、発生するゴミそのものは減っていないので、ゴミ量の増加傾向を止めることはできない。それゆえ、この解決は発生ゴミ量の増加につれてご破算になってしまう。実際に各自治体がゴミ問題に取り組む中で、最終処分量の減量化から発生ゴミ量の減量化へその問題(目的)設定自体を変更させてきた。多くの自治体で分別収集を採用するようになってきた背景には、このような、新しい枠組みでの問題設定がなされていたのである。そして現在は、また次の問題設定の段階へと進んでいるようである。ゴミ問題はゴミ処分の問題から、ゴミ収集の問題、そしてゴミの発生・消費の問題へと問題自体のとらえ方が変化してきている。その変化の方向は問題をよりシステマティックにとらえる方向への変化である。

 与えられた問題を解くだけではなく、どのように問題を設定すればよいのかを視野に含めることが、環境学のアプローチに求められている。このような問題設定ができるためには、システマティックなものの見方、すなわち問題のシステマティックな連関をとらえることが求められる。

 この際に、ものごとの認識のしかたに関する矛盾した側面に翻弄されてはならない。知識が必要であり、知識に囚われないことが必要なのである。

 おそらく、既存の知識体系と確立された行動様式に依存するだけでは、十分に見えない部分が、見えないがゆえに大きな問題をまねくことが考えられる。環境問題は私たちの視野の欠落している部分から生じるのであろう。

 現在調査している、東北タイでは、この2〜3年急速に天水田稲作の方法が田植えから直播きに転換してきている。その理由は、労働力の不足である。若い労働力はバンコクなどの大都市に働きに出てしまい、村に残された労働力は減少してしまっている。雨季の始まりの短い時期に田植えをするのに十分な労働力がないのである。そこで、短期間に広い水田に植え付けることのできる直播きがひろまってきたのである。基本的に、東北タイの農業は商業的稲作と自給的稲作が半々であるが、基本的な食料は米や魚などを水田から自給できているがゆえに、米の価格が低くても商業的稲作が続けられているのであろう。直播きの普及によってこの構造がおおきく変化するのではないか、と想定される。

 現在、直播きは始まったばかりなので、そえほど収量は落ちていないが、それが定着すると、水田におそらく雑草が繁茂するようになり、収量が大幅に落ち込む時期がそのうちにやってくるであろう。労働力不足の傾向は緩和することはないであろうから、そこでとられる対策は除草剤の散布であろう。これはおそらく、自給的な水田を傷つけることになるであろう。それは、水田が供給していた自給的な蛋白源を失うことにつながるのではないかと危惧される。農民は現金収入への依存度を強め、自給的農業の側面がうすれ、それが同時に東北タイにおける商業的農業の存立の基盤を掘り崩すのではなかろうか。現金収入の確保できる都市周辺の農業地域、またサトウキビ・プランテーションなどが近くにありそこで賃金収入を得られる地域では、商業的稲作存立の条件が残されているが、それ以外の地域では存立が困難になることが予想される。いずれにしても、天水田地域への直播きの普及がどのような問題をもたらすか、興味深い課題である。