海洋の化学的キャラクタリゼーションのための新方法論

中山英一郎

環境生態学科


 私の仕事は地球化学、もっと細かく言いますと、海洋中の微量元素を研究する海洋無機化学であります。海水中の微量元素の化学分析法を実験室で開発し、それを持って、観測船に乗り込み、太平洋やインド洋などの外洋域において、様々な微量元素の分布や挙動を調べる研究分野であります。海水中で微量元素と呼ばれるのは、その濃度が1ppm(100万分の1)以下の元素と定義されていますが、最近では分析技術が進歩し、1ppt(1兆分の1)あるいは、それ以下の濃度の元素も分析できるようになりました。この様に希薄な海水中の微量元素を研究して、一体、何の役に立つのかと疑問を抱かれる方も多いでしょう。微量元素は微量であるが故に海洋の化学的、生物的、物理的な状況を鋭敏に反映しているなどと大昔から(と言っても1960年代)から言われて来ましたが、実のところ私も、つい最近まで微量元素の研究は地球科学者(海洋化学者)の興味だけの、純粋に学問的な対象に過ぎないと思っておりました。ところが、1980年代の終わり頃、ある米国の海洋化学者によって「湧昇によって栄養塩の豊かな深層水が表層にもたらされている広範な外洋域において、植物プランクトンの一次生産が大陸から大気を通じてもたらされた鉄の不足によって制限されている。」と言う"鉄の仮説"が提唱されました。それ以来大気中の二酸化炭素の増加による地球温暖化との関連、すなわち、海洋表面に鉄が多量供給されると植物プランクトンが増殖し、海洋中の海水中の二酸化炭素を消費するので、海洋が大気中の二酸化炭素を吸収する可能性があることで、海水中の鉄がにわかに注目を集めるようになりました。長年海水中の微量元素の研究に関わってきた私も、この説には少なからぬ衝撃を受けました。それは我々海洋化学者が海水中における微量元素の役割とお題目のように言っていたことを見事に指摘したからであります。この様な事実が1980年代後半まで知られていなかったのは、海水中の微量鉄を汚染することなく分析するのが大変難しかったからです。地殻中に5%存在する鉄はありとあらゆる物に含まれています。したがって海水を採取する採取器、保存する容器、分析器具、分析試薬などをあらかじめ完全にクリーンにしておく必要があります。私は以前に鉄と同程度の濃度の海水中のマンガンを自動的に分析する方法を開発しておりましたので鉄の自動分析法を開発しようと考えました。

 マンガンの自動分析で用いたルミノール・過酸化水素系のCL(Chemiluminescence)は鉄に対して最も高感度であり、またマンガンの分析装置ではキレート樹脂カラムによって、鉄を分離しその妨害を除いていたことから、この装置を逆にすれば原理的に鉄の分析が可能であると考えました。また、マンガンの分析法の開発過程でフローシステムの汚染の除去や試薬の精製などの問題はある程度解決されていましたので、自信はありませんでしたが鉄の自動分析法を作ることも、さほど困難でないと考えていました。しかし、最も悪戦苦闘したことは心臓部とも言えるキレート樹脂について、鉄の汚染のないものを得ることでした。市販のキレート樹脂にはすべてその基質にかなりの鉄が含まれており、どの様に洗浄してもそれを取り除くことは不可能でした。そこで蒸留精製することのできるオルトケイ酸メチルを出発物質としシリカゲルを合成し、オキシンを化学修飾することにより鉄の汚染のないキレート樹脂MAF-8HQ(8-Hydroxyquinoline decorated Metal Alkoxide glass containing Fluoride)を得ました。かくしてFe(II)とFe(III)の全自動分析装置が完成しました。

 この装置は主に研究船白鳳丸上で西部太平洋、太平洋赤道域、南太平洋などにおける表層水中の鉄の生物活動に及ぼす影響の研究に役立てられている他、上記のマンガンの自動分析装置とともに熱水活動の調査にも活躍しています。最近、海洋観測をさらに効率良く行うため、採水の必要のない鉄、マンガンのin situ(現場型)分析装置の開発に取りかかっております。前述のマンガンや鉄の分析装置は濃縮システムを伴う複雑な系でありますが、感度はやや落ちるものの濃縮システムのないシンプルな系で通常の外洋水から熱水まで鉄、マンガンを他の元素の妨害なく測定できるシステムをそれほど困難なく確立することができました。このシステムを耐圧容器や被圧容器に組み込み4000mの深度まで利用可能なコンパクトなin situ鉄、マンガン測定装置が完成しました。このin situ分析装置は1995年秋に、しんかい6500のバッグに装着され、ビスマルク海、マヌス海盆において熱水活動にともなうマンガンのリアルタイムの分析に有効であることが確認されました。

 話は変わりますが、私は、先に述べましたマンガン、鉄の自動分析装置を持って、1994年に行われた白鳳丸KH-94-3次研究航海に参加し次に述べるような事実を発見しました。

 日本海溝の最北端の地点で、7350mの海底から約70mの間の深層中で鉄とマンガンのアノーマリー(濃度異常)が見られました。鉄では通常深層水中の数10から100倍、マンガンでも10倍以上の濃度でありました。この観測の11日前には約400km離れた地点に震源を持つ北海道東方沖地震が起こっており、また、その一カ月後観測点とほぼ同一地点において三陸はるか沖地震も起こっていました。したがって、この異常は北海道東方沖地震の影響か、あるいは三陸はるか沖地震の地震の予兆の何かであったと思われます。私は、この事実によって海洋底プレートによって引き起こされる地震の化学的な予知が可能になったと考えています。

 1995年4月、私は30年の長きにわたって暮らした京都大学を離れ、滋賀県立大学に移りました。県立大学では、初度の予算のお陰で新型のアイリスICP-AES分析装置、全自動グラファイト炉原子吸光分析装置、イオンクロマトグラフィー、栄養塩類のオートアナライザーなど水質分析に欠かせない装置を一挙に手にすることができました。これらの装置によって、京都大学生態学研究センターや琵琶湖研究所などとの共同研究が早速始められています。私は琵琶湖を海洋のモデルと考え、海洋の研究で得た成果を琵琶湖に持ち込むことにより、新しい切り口の琵琶湖研究を行いたいと思っています、さらに、琵琶湖で得た成果を海洋研究にも生かすことができれば幸いだと思っています。