「環境」、「環境学」、「環境科学」について思うこと−自然科学的側面から−

籠谷泰行

環境生態学科

1.生態学という学問がある。生態学では生物と環境の関係を主要な課題の一つとして扱ってきた。生態学の中の生態系という概念は、生物とそれをとり巻く環境を一まとまりのものとするとらえ方である。生態学は生物学の一分野という側面を持っているが、しかし生物学の他の分野でのように、生命(生きているということ)を生物個体あるいはそれ以下の生命単位自体が保持するものとして見るのではなく、生命を生物と環境の関係として見るというとらえ方を持っている。

2.環境科学という学問がある。現在「環境科学」というと、環境問題についての科学、環境問題を解決するための(応用)科学、という印象が一般には持たれているし、少なくとも日本ではそういう語義解釈が支配的である。もともと環境科学はそういうものとしてスタートし、その領域において進歩、発展してきたのだから、こういう解釈はむしろ当然というか正しいことである。しかし、現在顕在化している環境に関する問題は、そういう従来の環境科学では捉えきれず、扱いきれない。

3.環境の問題が現在見られるようにさまざまに展開し、多様な側面を示してくるにつれて、それについて考えていくのに、従来の問題解決型の環境科学では飽き足りずに、それでないもっと広い視野に立った包括的な学問体系の創出を夢見るようになった。それにあわせて、現代文明の中での科学技術に対する批判的な雰囲気の増大や、「科学の限界」というようなものへの漠然とした意識などが背景となって、環境のことを認識したり考えたりするのに、「科学」という枠組みを取り払った新しい学としての「環境学」を模索しはじめるにいたった。そういう状況のもとで「環境学」という言葉はかなり一般に出回るようになり、言葉としてちょっとしたブームさえ巻き起こすようになった。しかし、その「環境学」の実体というものは現実には何もなく、それの創出あるいは体系化のための方向性すらも見出されていないというのが実状である。

4.今後、環境を、さらにはそれについて考える手法としての学問を、どういうふうに捉えていけばいいだろうか。

5.まず、「環境」という言葉、概念。人間、あるいは生物という主体があって、それと切り離されたかたちで「環境」という全く別のもの、対立的なものがあると考えるのはあまりうまくないのではないか。それから、「環境」というと山川草木の「自然」のイメージが強いようだが(特に「環境保護」などというような言葉ではその意味合いが強い)、それも片寄った見方であるだろう。「環境」の概念として参考になるのは生態学的な「環境」、すなわち生物と環境を一体のものとして捉えるとらえ方であると思う。つまり、人間(あるいは生物)という主体を包む外界の状況すべてが「環境」である。そういう認識を共通のものとして持つ必要がある。これは「環境」という言葉の本来的な意味であって、すなわちそこに立ち返るということである。

6.この「環境」観、そして生物と環境の関係の生態学的な考え方を採用し、生命(生きているということ)を生物と環境の関係において捉えるということをすると、「環境問題」というのは結局、人間の生きているということの問題であるということになる。

7.環境について考えるのに、どういう環境観を持つかというのは大事なことである。それは一つの究極的なテーマでさえある。そういう環境観の確立ということも含め、環境について広範な手法のもとで認識、思考、記述、表現する学問の統合体として(もしそういうものができるかもしれないというなら)「環境学」というのは確立されていくべきものなのだろう(それが学問の形態でまとまれるとしての話だが)。ただ環境に関して行われているさまざまな学問をひっくるめて、束ねて、それが「環境学」であるというのではあまりにお粗末であるし、それならそんなことわざわざやらなくても同じことである。

8.現在の環境問題を扱うには、「環境問題についての応用科学」という従来の環境科学の枠を抜け出て、環境について(あるいは人間や生物について、あるいは両者の関係について)もっと広い視野に立って客観的自然科学的に認識するという態度に立ち返ることが求められる。そういう「環境について科学的に認識・思考・記述していく学問」としての「環境科学」が正式に確立されなければならない。もちろんこれまでの環境科学、すなわち、例えば大気汚染や水質汚濁などを実際的、具体的に解決していこうとするような応用科学が、今後も今までと同じように必要なことは言うまでもないことだが、そういうものを含み込んだ広義の(本来的な?)「環境科学」の確立が、そしてそれに携わる研究者の「環境科学」に対する自覚が必要とされている。

9.このように環境科学を拡張すると、それは「自然科学」というのに限りなく近くなるかもしれない。ただしその場合の「自然科学」は、今ある自然科学の全分野ということではなく、外界自然(あるいは自然界)についての科学、自然界やその中のさまざまな関係を科学的に認識していこうとする学問ということになるだろう。そうすると、従来の既成の自然科学の学問分野である数学、物理学、化学、生物学、地学といったものを用いて(それらを手段、言葉として)、しかもそれら個々の枠にとらわれることなく「環境」について認識を進めていく、そういうものの統合体として「環境科学」は確立され得るのではないか。

10.これからは「環境科学」でなく「環境学」であるべきなのだろうか?「環境科学」はもう古いのだろうか?「環境科学」の役目はもう終わったのか?「環境科学」と「環境学」の関係はどういうことになるのだろう。

11.「環境科学」は科学(ここでは自然科学や社会科学などに共通の、手法としての科学)である。それに対して「環境学」は、科学という枠を含み超えたより幅の広い学問(理性的手法による認識、思考。科学をはじめ哲学、倫理学なども含まれる)である。そういう言葉の意味であるはずである。あるいはそういうふうに志向しているはずである。環境について学問するという場合、「環境学」は「環境科学」よりも器が大きい。しかし、「環境科学」は「環境学」の主柱となるはずだ。というのも、科学的認識の基盤をいい加減にした「環境学」などというのは無意味だからである。「環境学」の基盤はあくまで「環境科学」の知見により構成されるべきなのだ。ところで「環境科学」を環境問題についての(応用)科学というのでなく、前述のようにその定義をもっと広げて、環境についての科学と定義しなおすとして、現代において「環境科学」のやるべきことはあまりにも多い。それは一つには環境についての科学的知見を蓄積し、科学的環境像の確立をしなければならないということと、もう一つには学問として「環境科学」が一つのものとして統合されるべきであるということである。「環境学」は、むしろ、「環境科学」の確立を待っているというべきであろう。「環境科学」の確立があって、初めてそれを核として「環境学」を構成していくことができるのである。「環境科学」の果たすべき役割は今後ますます大きくなると考えるべきである。