環境の使い方をみせるデザイン

伊丹清

環境計画学科

環境・建築デザイン専攻


 人が生活を営むための「住まい」をはじめとする建物や環境はどうあるべきか、どのように使われるべきかを考え、そしてその考えに形を与えて提案・提供することに我々は関わっている。同時に、それらを仕事とする人材を育てることも目的として持っている。

 我々が考えつくり出す建物や環境は、さまざまな道具と同じように、その使い方を規定したり、方向付けたりする。けれども他の道具と異なり、住まうという行為の内容は単純ではなく、いろいろな住まい方を許容しなければならない面も持つ。

1.環境の使い方と使われ方

 暖房の方法は、採暖からはじまってストーブ等による部屋の暖房、空調機を用いた空気の汚れない暖房へと変化してきた。そして北海道では部屋単位ではなく家一軒を暖房して寒い部屋をつくらないようにする。これは家のなかの寒いところでの結露が重大な被害をもたらすからであり、使う部屋を暖房するという本州以南の住まい方とまったく異なっている。北海道の住宅内の温度は均質であることが望ましく、そのためには外皮(外と接する壁や開口部)の断熱性も場所によらず均等であることが要求される。熱的弱点部があるとそこで結露が発生する。結果的に家一軒暖房するにもかかわらず、エネルギー消費は抑えられしかも家の寿命を延ばすことに貢献することとなる。また、トイレや廊下が寒いということがなく、高齢者の心臓にも負担が少ない(東北地方の方が心臓発作などによる死亡件数が多いという現象の遠因となっている)。住まい方だけ北海道の方法を取り入れても、かえって家の寿命を縮めたり、省エネルギーに反したりしてしまう。

 そういうこともあってか、高断熱・高気密の住宅が本州以南でも導入・推奨されてきている。ところが夏が過ごしやすく冬の厳しい所とは異なり、夏の暑さが厳しい所にあっても断熱性や気密性に関して弱点になりやすい開口部を最小限とするような高断熱・高気密住宅が建てられたりしている。夏に冷房をすることを前提に考えれば、確かにエネルギーロスが少なく効率良く冷房ができるが、開口部分が少なかったり開け放しにくかったりするために冷房を要しない時でも冷房に頼ってしまうということがあるのではなかろうか。冷暖房に頼ってしまう「住まい」を、空調設備や換気設備の使用を前提とした住まい方を強要する「住まい」を、作ってしまっていないだろうか。これまで気候・風土が培ってきた住まい方、夏の通風を第一に考えてきた「住まい」の建て方、これらと新しい工法・設備、新しい住まい方との最適な接点を見い出していかなければならない。

2.環境の使い方を選ぶ

 科学・技術の進歩は快適な生活を享受することを可能にした一方で、生態系や自然環境といったグローバルな環境をないがしろにしてきたという側面をもつが、他方、我々は環境のことをよりよく知り、それを調整したり制御したりすることが多少なりとも可能になってきたという意味で、我々は環境のあるべき状態として選らぶその選択肢の数を増やし、選択できる範囲を拡大したという側面をもっている。病気で体力や抵抗力のない時に適した環境をつくったり、ちりほこりのほとんどない環境をつくりだしたり、あるいは極寒な環境を再現したり。そういったことを可能にする技術を我々は手に入れ、選択することができるまでになっている。その時我々はどのような環境を理想とすればよいのだろうか。

 どんな住まい方にも対応できる「住まい」というのも、ある意味では理想ではあろうが、その「住まい」を使いこなすにはよく理解した住まい手が必要となる。使いこなせる人がいなければ、せっかくの自由度も意味がなく、作り手の手が離れた時の状態のまま住まい手によって使用され続けることになってしまう。

 意図した用途に沿って使用されることを促す、うまくデザインされた「住まい」、その使用法は強要ではなく、選択肢として抵抗なく受け入れられる、そういう「住まい」や住まい方が一般に提供できて、なおかつ、その住まい方は環境負荷が少なく、持続可能な生活により近いものになっている、というのが理想かと思う。

3.環境の使い方のデザイン

 さまざまな工業製品がニーズのためだけでなく、新しいニーズをつくりだすことを意図して開発され、その製品を使う生活・文化といっしょに市場に広まり、時代をつくっていくのと同様に、これからの「住まい」もはっきりと意図した新しい住まい方とペアで提供されるべきだろう。しかし、新しい住まい方を意図して形を与えるデザインとは、あるいは、住み手にそのような住まい方を強要ではなく選択することを促すような「住まい」のデザインとは、どのようものだろうか。

 扉につけられた取っ手のデザインが、押すことを促したり、引くことを促したり、あるいは、どちらが正しいのかわからず押したり引いたり試行することを要求したりする。初めて入る建物内で、行くべき方向をサインや掲示板をじっくり見て、左脳をフルにつかって判断しなければならない事もあれば、入る時からおおよその見当がつく建物もある(おそらく非常時の避難に際しても後者の建物の方が時間も少なく、安全と言えるだろう)。地下街は一般にわかりにくい、といわれる。これらは、その時の目的に応じて取るべき行動の仕方がわかりにくいのと、その行動により生じる結果が見当を付けにくかったりわかりにくかったりすることが原因だろう。

 結果の見当がつく/つかないは、次の行動の有無を左右するだろうし、結果の見当がまったくつかなければ、試行錯誤することもこわくてできず、ずっと触られることさえなくなっていくだろう。

 環境にとって地球にとって、良いといわれる行動が奨励されたとしても、その結果が目に見えなかったり、感じ取ったりできないとき、その行動を持続していくには強い意志が必要とされるだろうが、なんらかの形でその結果を目にしたり、感じ取ったりできれば、行動の継続はずっと容易になるだろう。

4.環境の変化を見せる工夫

 建物から熱が外へ逃げていく、その様子が例えば水が漏れるように表現できれば、熱的弱点部分が一目瞭然にわかり、そこに断熱材を貼れば、水漏れを防ぐ事ができるように熱のロスを少なくできることが予測されよう。しかし今日の環境問題の場合には、その対策として我々が個々人で取ることのできる行動の結果を、環境の変化や変化の速さとして実感することはなかなか困難を要する。

 いままで無限の許容力・包容力をもっていると考えていた大地や海、大気といった自然が実はそうではなく、我々の排出しつづけてきたものによって、少しずつゆっくりと変化してきたのであり、間接的に巡りめぐって自然に知らずとダメージを与えて続けられてきたのだ。そういった問題だからこそ、手付かずで放置されてきてしまったのだ。

 我々はそういった問題に対して、その原因と解決方法との関係や、解決策とその効果との具体的な関係、等をわかりやすく単純化して表現したり、単純化の表現方法や行動の評価方法の工夫等を、積極的に提案していくべきだろう。また、そういった視点から住まい方に形を与え、一般に向けて環境とその使い方を提案していく人材を育てていかなければならないと考えている。