歴史的環境、そして環境史へ

石田潤一郎

環境計画学科

環境・建築デザイン専攻



1.歴史的環境とアメニティ

 歴史的環境とは、ふつう、地域が経てきた歴史のなかで形成された〈文化財・遺跡・町並み・自然景観・行事・習俗などの総体〉を指す。こうした概念そのものは、部分的にではあるが、戦前の文化財保護行政のなかの史跡・名勝、都市計画法のなかの風致地区の規定にも含まれていた。そして、1969年の新全国総合開発計画において「歴史的環境」という言葉がはじめて公的に用いられる。そのときから数えて30年以上たつ。この間、「町並み」や「景観」への関心は高揚してきたし、これらの言葉の含意には「歴史的環境」が意味するところも多く入り込んでいる。それにもかかわらず、この用語は必ずしも一般的な理解を得ているとはいえない。

 今ここでなじみの薄い「歴史的環境」という言葉を使おうとするのは、「歴史的環境」が、まさに人間を包み込み、働きかけ、影響を及ぼす<環境>の要素の一つであることを強調したいからであり、さらに、「歴史的環境」がどう扱われるかも「環境問題」にほかならないことを認識してもらいたいからである。

 歴史的環境が人間に及ぼす影響、ということに目を向けると、<アメニティ>という概念に行き当たる。アメニティは、一般に都市環境における快適さといった意味で用いられるが、英国のアメニティ法では、「あるべきものがあるべき場所にあること(the right thing in the right place)」と定義する。これを敷衍して、建築史家・鈴木博之氏はアメニティとは「人間の本来あるべき存在形式を保証しようとする気持ちから生ずる概念」と述べている。

 歴史的環境がアメニティの獲得に大きな役割を果たすのは、土地の閲歴が、「この事物はたしかにこの場所にあるべきだ」という判断の最良の拠り所となるからである。いみじくも山本夏彦氏はかつて、アンノン族の小京都ブームを「父祖の血が騒ぐのだ」と評した。私たちが都市空間から与えられる快適性の根源には、歴史性が横たわっている――といってよいのである。

2.環境史へのアプローチ

 望ましい都市環境を研究しようとするとき、上記のアメニティの定義「あるべきものがあるべき場所にあること」はきわめて意味深いものに映る。私たちは景観要素を分析したり、人の移動を計測したりする。それらはいうなれば「あるべきもの」の研究と呼びうる。これに対して、「あるべき場所」の解明にもまた向かいたいと思う。前述のことから、重要な方法として、その場所の歴史の研究があることは言を俟たない。

 場所の歴史の研究、それは一般に都市史、あるいは地域史と呼ばれるが、その場所を形成し、特徴づけている要因をまるごと捉えたいという願望のもとに、あえて<環境史>と称してみたい。

3.環境史・試論――湖東の集落をめぐって

 <環境史的視点>、それを今、具体的な場所――湖東の集居村を題材として提示しよう。

 湖東の集落景観の魅力は、広くは知られていなくても、確実に人の心を捉えてきた。宮本常一氏は、住居規模に大小の差が少ない景観から、富にかたよりのない村々の暮らしぶりを読みとった。そのような眼力はなくても、必ず集落の中心部に聳える寺院の大屋根に、宗教生活・・浄土真宗への篤い信仰を読むことはたやすい。

 私個人のことをいうと、甍の重畳の美しさが眼に飛び込んできた。その見事な瓦屋根の重なりを生んでいる原因は、家々の棟の向きが揃っていること――東西方向に配置される主屋とそれに直交する附属屋の組合せが反復されること――による。

 さらに注意深い眼は、それらのなかに点在する茅葺き屋根に気付くだろう。そして、かつては茅葺きが一般的であり、今日われわれが注目する瓦屋根の美しさは実はそれほど古くはさかのぼりえないだろうことに思い至る。瓦屋根の形式が入母屋と切妻とが混じりあっていることからも、瓦屋根の歴史の浅さ、つまり屋根形式が定型化するほどの時間を経ていないことを知ることになる。

 また、集落ごとの特徴も私たちの心を捉える。直交する街路は奈良時代以来の条里を継承しており、逆に奇妙に不整形の輪郭は、かつて琵琶湖の水位がもっと高かったときの水際の線を示している。すなわちその集落は巨大な浮島のような姿を呈していたはずなのである。あるいはまた、大学の間近でも観察できる極端な細街路はその集落が漁業中心であったことを示唆する。

 そもそも、水田の海のなかの小島のように集住する理由は、一つ一つの集落が用水の系統ごとに形成されたためであった。そこに、水利がこの上なく不安定だった湖東の過去(それもさほど遠くない過去)を見ることができる。

 このような、超歴史的な観照と、時間軸に沿った解釈との往復運動を繰り返すこと、そこに環境史の出発点があると私は考える。

4.なぜ歴史的環境か

 十数年前に、建築家・黒川雅之氏は「街や社会通念との調和や秩序を意図したところから(は)、近代の思想も建築も生まれなかった」と述べた上で、「創ることは、既に在るものを無にし、そして新しい価値を生じせしめることである」と論じた。この粗雑な論理を、しかし、私は否定しさることができない。こうしたラディカリズムによって建築の文化は確実に豊かになったのだから。

 にもかかわらず、やはり<歴史的環境>は守られるべきだと考えるものである。黒川氏がいうような、過去と未来とが対立する状況というのは、おそらくは特殊近代的現象にすぎないといいうるからである。

 歴史的環境において実現されていた空間の質から、私たちはあらためて多くのことを学ばなければならないだろう。なかでも、歴史的事象の広がりと厚みが生み出す<永続性>の感覚というべきものを特に重視したい。現代の生活環境は、いまだかつてなかったような刹那的・仮住まい的雰囲気に満ちている。しかもそれを自覚することさえもはやあまりない。その刹那性は、環境問題全般を貫く<持続的発展>という課題が社会全体から依然、他人事のように扱われていることと同根であるといってよい。歴史の空間的累層への眼差し、そしてthe right placeの探求は、環境と人間の存在とにかかわる主題なのである。


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