環境計画学科の意義と展望

末石冨太郎

環境計画学科長

1.はじめに

 この報告は、滋賀県立大学環境科学部環境計画学科からの発信として、最初の学部報の一部を構成するとともに、教育・研究活動の自己評価を行うための指針提供も目的に含んでいる。しかし、大学新設後わずか2年しか経過していないこと以上に、学科の名称である「環境計画」が「環境」と「計画」の双方についてなお相当な曖昧さを残しているため、一般・個人を問わずこの概念を受け取る側の共通理解(統一的であることを意味しない)を得にくく、ために、自己評価の枠組みも明示的でないというのが現状であろう。

 筆者は1960年頃からこの領域に関心をもち、67年から京大大学院で「環境計画学」(高松武一郎(システム工学)と連名)を開講し、阪大大学院でも装いを一新して単名で担当した約20年余の経験と、本学の設立準備期間には学科長予定者として学科内容のあり方の討議に携わったことにもとづいて、学科教員の総意をまとめるよりも、実学的な意味の学問分野としての方向と、将来への展望を試みる義務を、自分自身に課すことにした。

 とはいっても、与えられた紙幅の中に必要なことすべてを述べるのは到底不可能で、また、関連する著書・論文・総説を合わせれば優に200編を下らないから、これらの印刷物の読破を期待するわけにもいかない。そこで、論文などの定型には組み入れにくい事項を、やや"name dropper"の禁を犯しながら、時系列的に示すことから本稿を起こしたい。その上で現在筆者が開講中の「環境計画学」のミソの部分と関係をつけ、さらに、社会計画の枠の中での大学改革にも言及したい。

 ただし、この報告の表題が「現状と課題」でないことにも注意を喚起しておきたい。「現状」はこれまでに対社会・対学生用の公式資料に十分に述べてあるから、同じことを繰り返すことによってその内容の建て前的な正当性を自己補強する結果になることを避けたいのである。つまり、原稿を書きながら自身でbrain stormingを行い、思考を整理する、という方法をとるつもりである。しかも、細切れの時間を使って執筆を進めなければならない関係から、ややエッセイ風にすることも了解願いたい。

2.日本での「環境計画学」の系譜

 筆者が「環境計画」論について直接師事した先達はいない。しかし間接的に影響を受けた人はきわめて多い。それらの人の実名(敬称を略す)を借用しながら、まず環境計画の系譜を筆者なりにまとめておこう。

 水俣病が公式に発見されるのは1956年、その後59年に高度経済成長がスタートし、社会的に公害の激化が始まる。それまで衛生工学の片隅で上下水道を専攻していた筆者に、「これからは公害の予防を計画化すべきだ」と示唆したのは、他ならぬ「公害」の命名者で『恐るべき公害』の著者・庄司光(故人)であった。彼がなぜ筆者に矢を放ったのか、推定はついているがここでは秘す。

 70年10月に日本学術会議が大阪で公害シンポを開催し、衛生学者として庄司が受けてたったが、庄司が指名した高松が辞退したため筆者が庄司の隣に工学の代表として登壇した。そのとき筆者は初めて、「公害防止と環境システム」の用語を使って「緻密な先見性を」と訴えたのだが、場の雰囲気は非常にきびしかった。フロアには、都留重人、庄司の共著者・宮本憲一、さらに東大安田講堂で「公害原論」を始めていた宇井純が中央に陣取っていて、筆者がいわばscape goatにされた。つまり、公害の元凶は工学だ、と。本邦初公開の余談をひとつ付け加えると、シンポ終了後筆者は今後の指導を都留に乞うたのだが、彼はプイと横を向いて返事もしてくれなかった。

 その後、学生達の要請で京大に来た宇井は、72年に筆者が創始した環境容量理論を「うっすらと公害をばらまく理論」と批判し、学生の喝采を得たらしいが、これは誤解も甚だしい。筆者は自然の容量すら原則的には0として扱っている。84年に上智大で開かれたエントロピー学会の壇上で筆者が資源物理学の槌田敦と対峙したとき、宇井は初めて、筆者を「御用学をしない国立大教授」と評価した。宮本が非常勤で「社会資本論」を担当していた阪大環境工学へ筆者が赴任したのが75年、重要科目を非常勤任せにしている学科の欠点を押さえ、宮本を説得して彼の講義を「環境経済学」(4回生用)に変更させ、末石・宮本の連名で開講した。宮本が多忙を理由に非常勤を辞したので、その後阪大を退職するまで筆者が単独でこの講義を担当した。この宮本との連名講義は成功した。筆者も学生といっしょに宮本の講義を聴講して毎回質問を浴びせたことが、いまでも「環境経済学」を講義できる自信につながっている。

 やや先走ったが、筆者の記憶では、工学系で土木分野より先に「環境」を取り込んだのは建築で、黒川紀章の「環境建築」が日本初見だったと思う。しかし、super-architectureの中に用語としての「環境」が使われただけで、彼の仕事の実質は公害などとは無関係であったことは間違いない。当時は、環境よりも「開発」のほうがはるかに社会的には通りがよく、筆者がscape goatにされている頃、浅田孝(故人)の「(株)環境開発」が、人工地盤計画で高く評価された。筆者流にいえば、環境接頭(窃盗)会社なのだが、後年、トヨタ財団の「身近な環境」プロジェクトで彼といっしょに仕事をしたときに、環境開発の意味が偽物ではないことを知ることになる。これは、すでに多々経験していたことではあったが、外国では芸術学部に属する建築分野と「用と強」を重視しすぎる土木との発想の違いとしかいいようがなく、同じプロジェクトで初対面した川添登(生活学)にも共通点がみてとれた。

 筆者が正式に「計画学」の修業をしたのは、65年に土木学会に創設された土木計画学委員会で、これは恩師・石原藤次郎(環境ではなく河川工学)が京大土木の大学院で先鞭をつけ、同じ枠組みが全国の土木工学科に波及したのを受けて誕生した場である。土木・計画学か土木計画・学かという議論は面白かったが、結局のところ内容は「官庁土木計画」で、初期のリーダーは建設省や運輸省から大学(主として京大)へ里帰りした俊秀達だった。しかし彼らの認識は、いわゆる右肩上がりの公共施設整備の需要予測を上位におき、所与の目的を達成するためのprogramingをplanningと呼んだのである。これは、主要技法であったPERT,CPM,Goal Programingの性格をみればよくわかる。

 公害問題関連で土木が開発の首謀として受ける批判をかわすため、学会の幹部はやや姑息な手を打った。衛生分野の起用である。筆者がまたその任を負わされ、71年には計画学委員会の委員兼幹事を仰せつかる。また、衛生工学委員会の下部に「環境問題小委員会」の設置が要請された。これが学会内での正式の「環境」の認知で、72年のことである。計画学委員会がはじめて「環境」を主題にしたのは73年、筆者はもうひとりの幹事であった『風景学入門』の中村良夫(東工大・社会)と共同で環境把握の概念設定を行い、同時に潜在廃棄物環境の研究発表もした。

 この頃から政府の対応もようやく始まる。71〜73年に筆者は、現国立環境研究所の前身である公害研究所の設立準備委員会専門委員を勤め、計画化への転換が可能な環境模型の実験技術と人材の集め方までを提案したが、結局は、「亜」大学型の研究所になってしまった。計画の概念をもったのは総合解析部門だけで、それでも、リーダーとなった内藤正明(現京大環境地球工学)にはすまないが、突きつめれば研究はやはり分析型であった。その証拠に、第1期の同研究所の要員の大部分は大学の環境分析関連部門へ散ってしまっている。同部の計画関連の顕著な業績は、原科幸彦(現東工大・社会)らのグループが作った、計画用具としてのELMES(Evaluation Laboratory for Man and Environmental System)だけであろう。

 大学の学科として筆者が注目していたのは、東工大の社会工学科で、石原舜介、川喜田二郎、阿部統(経済学)ら異分野の多士済々の陣容を擁し、当初は新学部として構想されていたと聞く。筆者は経企庁のNNW計画や兵庫県の住宅計画などでしばしば石原と共同の仕事をする機会があった。筆者がprogram型ではないという意味で石原に認知され、川喜田には移動大学のsupporterとして格別の知遇を得た。筆者はまた、石原の方法が通常の地域計画で多用されるtop-down型のゾーニングではなく、現状分析した結果を別の尺度で再構成してゆく創造的なものとして理解した。

 筆者が阪大環境工学(68年創設)からの勧誘に応じた理由には、東工大の影響があり、また自分で資料を取り寄せて検討もした。当初はやはり「環境学部」として構想され、建築・機械・化学などの混成チームが、人間活動に伴うネゲントロピーの増大をキーワードとして学科の理念を創造しようという情熱も資料の文面から読みとれた。創設責任者は新津靖(空調・熱学)で、建築計画の足立孝(故人)が環境計画学講座を兼担していた。ここで初めて筆者は、建築・機械の専門家とのcommunicationを越えたcollaborationを開始するのであるが、その前に、70年大阪万博の会場計画にふれておかねばならない。

 計画のリーダーとして西山夘三(故人)がどうして選ばれたのかは知らないが、コアスタフとして京大の建築・交通・衛生から、それぞれ上田篤と川崎清・佐佐木綱・筆者が選ばれた。土木系と建築系の長老教授がわれわれを選んでくれたことは間違いない。これは65年のことで4人とも30才台の中堅だった。西山は上田に「お祭り広場」のコンセプトを与えただけで、あとはほとんどわれわれ4人の自由なアイデア提出を待っていてくれた。われわれは各自の研究室の助手達も動員して事前検討や調査の仕事から着手し、筆者は、会場を未来都市の実験場と位置づけて、川崎が提案した人工湖を核にした用途別給排水と水循環システムの機能論・意味論的計画を練った。ただし意味論のほうは、随時協働参加してくる建築家達のくれる示唆によるところが多かった。筆者の案は、通産省の補助金を審査する立場にいた堺屋太一(当時は池口小太郎)が、「そんなものはいらん」とニベもなく否定したので、最後には、万博協会に関電から出向していた先輩の玉井摂郎を説得して、協会職員なみの仕事もした。本筋からやや外れるが、毎日午後大阪の本町にある竹中ビルの作業室へ上田・川崎・末石の3人が横隊を組んで移動したため、京大の三羽烏とも呼んでもらった。

 ここでは詳論の必要はないが、リーダーが西山から丹下健三・高山英華に交替し、引継を兼ねた打合せ会が軽井沢で開かれたとき、磯崎新やその弟子達とも面識を得、その中に後年トヨタ財団経由でいまはNPO団体を設立した山岡義典もいた。ここで三羽烏はいったん解散するが、筆者はもう一度どこかでいっしょにやろうと提案して別れた。

 阪大環境工学の学年進行に応じて、まず70年に川崎が笹田剛史を伴って赴任し、その後筆者が最後に残った講座のぶんどり合戦の結果として乗り込み、足立が建築に専念を決めた直後に、助教授だった大久保昌一が法学部に引き抜かれ、今度は筆者が上田を口説き落として「環境計画学」の講座に据えた。78年だった。本当は筆者がこの講座を担当したかったのだが、筆者はすでに「廃棄物環境」の概念で新しい同僚にカルチャー・ショックを与えたらしかったし、後に大久保さえ筆者が追い出したと風評されたくらいだったから、自分だけの希望を満たすよりも、昔の約束を実行することを重視したのである。こうして川崎が京大へ再度転任するまで、復活した三羽烏は5年間続いた。上田はカリキュラム改訂に全力投球をしてくれ、川崎と筆者は京都への帰路に頻繁にデザイン論を戦わした。「私の環境学」で筆者が簡単にふれる「大学と地域との結合」プロジェクトの素描は、最初川崎がプロットしたものであり、筆者のアイデアを逐次プレゼンテーション化してくれたのは笹田であった。川崎が欠けたあと上田は、阪大に芸術学部を創設する構想つくりに専念したが、彼が京都精華大の美術学部に移ったのは、この構想実現の困難さを見抜いたからであったに違いない。筆者はその前後に各講座の助教授と次々に組み、外部からの研究費も獲得して共同研究を行い、また計画学講座にいた足立の弟子の日下正基を筆者の下に配置替えした。後に彼は和歌山大に移り、産業システム工学部新設の中心的役割を演じた。

 前述の環境問題小委員会は16年間継続され、若手から委員会への昇格を託された筆者が最後の6年半の委員長を勤めた。この間、計画学委員会の重鎮になっていた中村の助力も得て、ようやく、「環境システム委員会」案で理事会を通過させたのが、87年11月であった。この趣意書では「環境計画」という字句が躍っている。

 上のような次第で、70年代後半から80年代いっぱいは、筆者にとって本当に多忙で、東奔西走、1年の1/4は東京にいた。学術会議第5部に新設された「環境工学研究連絡委員会」の委員兼幹事を82年から8年も勤め、土木・機械・建築・空調・化工・化学など・20余の学会を横断する「環境工学連合;Federation of Environmental Studies」を結成し(83年)、またその連合講演会を立ちあげた(86年)。筆者からみれば、環境工学連合への巻き返しともとれる形で、理系(環境動態)・医系(人体影響)と工学部の公害防除技術研究者が集まった日本環境科学会が88年に創設された。しかし環境計画分野のうち「科学」として認知されたのは「計画支援機能」だけで、筆者は環境計画学からの人質の形で理事になった。

 さらに、文部省科学研究費の枠内では、環境分野が特定研究、特別研究、重点領域へと拡大されるに従って、関西の大学に在籍する者の地理的なハンデ、さらにいえば、学術的業績と無関係に東大系の学者に研究組織の編成が委ねられる悪弊にも我慢しながらの研究参加が課された。ただし、この期間に筆者が得たことも多かった。まず、北大環境科学研究科に設けられた「環境計画学」専攻の指導者であった小川博(土木系、故人)に、筆者の蓄積型環境容量理論が評価されたこと、沼田真・小原秀雄・岩城英夫らの生態学者が、川上秀光(東大・都市工)と筆者らを支援者として環境の「計画化」研究を推進してくれたこと、筆者自身は87年度以来の6年間に総計約1.5億円の研究費の配分に預かり、資源・経済・熱・廃棄物などのより広い分野の専門家を組織して計画研究を遂行させる機会をもてたことである。またこの過程で筆者が開発した「産業連関の水資源集約度」の研究は、やや分析的ではあったが、従来のシステム目的を解体して、形態合理的にみたシステムに都市廃熱の管理を新しい計画変数と目的に加えたという形は、石原の方法との共通項をもっている。

3.環境を対象にした分析と計画の違い

 2.は予定より長くなった上に、やや自己中心になりすぎたことを否定しない。それでもなお、紙面に"drop"しておきたい姓名が続々と想起されてくる。これは筆者の年齢のせいに違いないが、ここでは人名を別の角度から引用しながら、計画という行為の主体と組織について論じてみたい。

 計画を扱う研究者や行政マンはよく、"plan, do, see"という表現を使う。しかしこのプロセスの全期間は現実には10〜20年にわたるはずであるから、論文や計画書に書かれる部分は、結果的には最初の"plan"の部分だけになり、"do"は工事報告など、"see"は歴史研究に委ねられてしまう。建築学者から「なぜ土木には土木史がないのか」という問いが発せられたことの原因は、どうもここらあたりにありそうだ。最近ようやく土木史研究も活発になったが、大部分は故人の業績や土木モニュメントを発掘・礼賛するpositivismの研究で、その前々段にあったplanningは、特にdoの過程に至らなかったものは屍累々、どこかの引き出しをいっぱいにしているに違いない。その上、現実の"plan, do"そのものが失敗だという例もきわめて多い。「失敗を研究化」することも環境計画学の必須コースにすべきだろう。

 さらに、"plan, do, see"をもう少し短かい期間のサイクルとしてみても、analystとplannerとdecision makerとは少なくとも別人格、よりはっきりいえば、別主体だということもわかる。そしてここに、意思決定者は誰か、という大問題が浮上するが、少なくともdiscipline-orientedで環境の動態分析に専念する場合は、decision makerのことを考える必要がないか、それらの集団で構成される審議会が無責任でありえたり、権力的決定者に誘導されすぎると御用学者に成り下がる。

 この問題を「分析と計画の違い」として非常に的確に述べたのが、『コンピュータと社会主義』(V.グルシコフ・V.モーイエフ著、田中雄三訳、岩波新書)で、その該当個所を以下に引用する。

 「将来に関する大きな決定は、いつも一定の不確実性のもとでなされる。この際、現にどんな傾向があるか、決定に従ってどんなことが起こりうるか、の材料を用意するのが分析担当者の仕事である。しかし彼ら(主として学者・研究者)は何か不明確な点をみつけると、とことんつつきまわす本性をもっている。しかし認識の過程には際限がなく、だからといって決定を際限なく引き延ばすことは許されぬ。ある点から先は科学の成果を利用しながら決定を下さねばならない一種の最適点がある。この瞬間を選び出し決定を下す指導者には、分析担当者の特徴を形成するのとは違った資質と訓練が必要だ。しかし普通の指導者は組織内の「ぼや」を消してまわることで精いっぱいで、将来像や政策を考えていない!」

 ここでごく単純に割り切れば、引用文の「瞬間」と「決定」をもう少しソフトに幅を広げてとらえたときの指導者が計画者のイメージである。ある国際会議向けの論文にこのことをsimpleに表現したいと悩んだすえ、筆者は一計を案じた。京都の白川通をウロウロしていたヒッピー風の夫婦連れをわが家に連れ込み、夕食をおごった後議論をふっかけてみた。答えがすぐ返ってきた。"it is so observed, but not so planned"である。問題はこの"so"の内容を吟味すればいいことになる。いまはこの"so"の中に、「分析」結果を「意思決定者」に伝える技法を含んでいるかどうかを問題にすることもできる。この技法が「合意形成法」なのだが、これらの技法の開発は比較的最近の事項に属するので、これがなかった時代にはどうなっていたか、2.と同じような筋書きで、行政・民間・国際などの分野に広げて筆者の経験を述べながら、やや荒っぽい考察をしてみよう。

 万博計画にあたっては、この決定者に関して明らかに確執があった。「西山→丹下」の線を引いたのは明らかに大阪府だが、関西チームが担当していたときにも、文化対技術の対立があった。梅棹忠夫と多田道太郎を従えた桑原武夫(故人)と上田と筆者を従えた石原藤次郎が、京大楽友会館の大広間の真ん中で向かい合って手打ちをしたこともある。論理的には石原が負けていたが、計画を勉強中の従者の量的実績の面では圧倒していた。これをもっと単純化すると、1対1の声量主義やさらに暴力主義も見えてこよう。しかしこれで満足してはいけない。上田はその後、梅棹・多田に急接近して、計画者としての幅を拡大していく。その溢出効果を筆者も頂戴し、上田・多田・進士五十八の「橋を文化として見る」シンポの司会を筆者がしたこともある。

 70年代に筆者は京都アメリカ・センターでたびたび、環境問題の伝導師達の講演をモデレートする仕事をした。Ren? Dubos(故人),David Brower(Friends of the Earth会長),Alvin Alm(EPA市民参加担当官)などで、ここで吉田光邦(科学史、故人)ら多くの異分野の人とも出会った。このご褒美に77年5月にアメリカ国務省の招待を受け、アメリカの宇井純といわれたBarry Commoner, 筆者とよく似た研究をしていたJon Liebman(Univ. of Illinois),ハワイの地域計画に環境容量理論を応用していたTom Dinell(Univ. of Hawaii)らと議論する機会を得た。全員が同列の計画研究者ではないが、共通項は計画変数・目的が従来の計画とは変わっていることで、特にLiebmanは、決定者が最新の最適化手法の訓練を受けてないことに着眼し、planningとはthinking made publicを養成する、つまり、意思決定者を一般大衆として方向づけ、そのことに全くふれていない大量の研究論文を、「私の論文に引用されたくはないずだ」と切って捨てた痛快な論文をくれた。citation indexで研究業績の質が評価できる、というのも神話になってしまうのである。

 やや面倒な"so"の例に、Ian McHargの"Design with Nature"がある。この中にmap overlayの手法があり、McHargの弟子を名乗るHarvey Shapiroや磯辺行久がアメリカからやってきた。この方法は、計画対象の土地をgrid分割して、多くの指標で各gridを階級表示し、これを重ね合わせて土地利用適性を評価するもので、進士の「入り込み容量・受入れ容量」と相通じるところがある。両人は、各地の行政にこれを売り込みに歩いた形跡があるが、行政版の「環境容量計画」にはほとんど活かされておらず、たいていは緑被度と住民満足度を関係させたものであった。それでも、公害防止programだけの環境計画とひと味違ったのは、それまでの緑地計画が造園系のタブロー主義に傾斜しすぎていたことが背景にあり、いわば環境計画としての変数選択の自由度がまだ大きかったせいではないだろうか。それに比べてもさらに、日本では、社会・地域・環境が想像を絶する複雑さに満ちていて、もちろん人口密度も稠密で、いくらgridのサイズを小さくしても計画変数選択の自由度を増やすことはできず、生態学者の島津康男や栗原康が使う、または進士流の容量が含意する、人為と自然の"intrinsic matching"のほうがわかりやすいかもしれない。

 島津や栗原は、彼らのほうから筆者にactionをかけてきた数少ない学者で、このつながりを利用して筆者が『創造の世界』(23号、小学館、1977)で仕掛けをし、栗原の基調講演「有限の構造」をめぐって議論をした湯川秀樹(故人)、島津、上田、筆者のシンポで、matchingの神髄を十分に味わうことができた。これに対して日本のほとんどの研究者は、Shapiroの場合とも共通して、計画システムのプロセスの導入だけにとらわれて、著書や論文には書かれていない、その方法が生まれた地域/土地/社会文脈に考察を広げようとしない。Shapiroは人を介して筆者にも接近し、外国人である利点と沼田らにも重宝がられた勢いで、大阪芸術大の環境計画学科(設立時期を筆者は知らない)の教授になった。その後学位取得の指導を乞うた彼に、筆者はMcHargモデルの日本での欠陥を指摘し、その修正が学位授与の条件だと手を変え品を変え説いたが、彼は遂に理解できず、筆者の周辺から去っていった。この欠陥とは、ごく単純にいえば"so"の問題で、計画技法の上にたつ広義の「意匠」の欠如でもある。これについては4.でふれることにする。

 おクラ入りの典型になったけれども、筆者が御用学ではない場を得た行政研究の事例を紹介しよう。滋賀県環境室は、琵琶湖富栄養化防止条例の施行後、無リンLASだけを規制対象にした合成洗剤問題にある種の危険性を予知していた。つまり、将来の不確実性の条件下でいま何をなすべきか、という研究を企画した。後日談では、県庁づめの記者仲間は、この研究はむずかしすぎて誰も引き受けまいと噂していたらしいが、筆者が引き受けたので驚いたそうである。ただし期間3年で4000万円はやや不十分で、分析値の判断に知恵を出してもらうことを依頼した研究者(吉良龍夫、近藤雅臣(阪大・薬学)、後藤富佐夫(県水産試)、丹保・憲仁(北大・衛生)、中川文一(県衛環センター)、堀太郎(滋賀大・油化学、故人)、森下郁子(淡水生物研、水棲動物)、吉田多摩夫(東京水産大・海洋))を酷使する結果になった。筆者が団長となって上記研究者で調査団を編成し、事務局を(社)システム科学研究所におき、盛岡通(阪大、筆者の後継)が事務局長兼研究企画担当、日下が計画化担当となって、"so"の組織づくりをした。

 まずLASの使用状況と主要河川の流況調査、膨大な既存研究の計画思考の目からの解読などを行い、鮎の仔魚のLAS忌避行動の追加実験を加えて、計画変数(水系別の環境requirement設定、LASの空間的・時間的・家族構成的使用基準)の循環的flow chart化とその行政システム化を提案した。もしいまこの研究を行うとすれば、LAS直鎖が処理場や河川で切断される過程の中間生成物がかえって発癌性をもつことなどをデータ化すべきだが、LASそのものの琵琶湖環境への影響はまだ灰色であることには変わりない。新聞記者達は「黒」を期待して筆者に執拗な質問をし、県がおクラ入りにしたのは、「白」を楽観したからであろう。もしいま仮に、LASに非加熱製剤なみの悪影響が発見されれば、筆者は計画決定者としての責任をとる。ここにも、分析と計画の違いが存在する。この成果をある国際会議に発表したところ、"Regulatory Toxicology & Pharmacology"(Vol.8,1988)から執筆要請を受け、普通はあまり他人には引用されない筆者の論文に比較して、全く驚くほど多数の別刷請求が世界各地(中進国)からやってきた。

 このような状況において、民間と大学の関係はどうなっていたか。筆者の言い分は、「産官学協同」の内容が平凡すぎることである。アメリカに行った時期の直前の3ヶ月間、筆者は(西)独DAAD招聘教授としてDortmund大環境計画研究所に滞在し、講義よりも環境施設計画の実状視察に専念した。施設は徹底した分散主義、現場の運転技術者さえも社会技術史の素養をもっていること、などを確認し、法律と計画の関連も含めた日米独の比較研究をした。研究所のparadigmは環境汚染の実態や環境保全策を常時外部に展示することで、これは、94年に東京で開かれた日独地域計画比較シンポでもより明瞭に示された。シンポの目的は、IBA(Int'l Bauanstellung)Emscherpark(資本金150億円、10年の有限寿命)が旧産炭地域の環境型再開発の方向づけのための展示内容で、大阪湾ベイエリア構想もIBAと同じだと地域整備振興公団の代表が報告したのに対し、IBA代表T.Sievertsは完全に首を横に振った。彼は筆者の吹田プロジェクトには背中をたたいて激励してくれた。つまり、ドイツでは、市民または市町村が意思決定者になっている点が計画の骨格となっているのである。

 ただしこのスタイルを一挙に日本に持ち込むことが、非現実的なことはもちろんである。しかし結論的には、ここにシンクタンクの役割や、Sievertsのように大学(Karlsruhe, 建築)から完全出向する形態に求めざるをえまい。

 公害企業の石原産業の化学技術者だった畔上統雄が、会社に対し"negative flowsheet"を提案したが、これが容れられなかったために独立、PRAND(Planning, Research ANd Development)を設立した。彼は76年秋に突如筆者の前に現れ、以後、計画系の研究者を随時組織化して環境計画の政策提言を、厚生、環境、通産、運輸などにぶつけていく仕事を開始した。この場で筆者は、吉阪隆正(故人)、林泰義など建築系の計画家や、神保元二(名古屋大・化工)などと交流をもった。畔上の特徴は、自社の社員を含め、実践型の計画研究をしない者を次々に切り捨てていったことで、大学教授でも容赦しなかった。これは日本での"so"の問題のひとつの解決法で、linearに記述する論文以外の、ある意味での「作品」が環境計画学の成果として要求される所以でもある。

4.意匠とメタ・デザイン−機能論と意味論

 これまでは「意匠」という用語をあまり使わなかった。その理由は「意匠」の意味が非常に深く、官庁土木計画学の範疇で議論すること自体に無理があると考えたからである。計画学を土木工学の柱として選んだ段階では、もう2つの柱は「設計学」と「施工学」になったが、前者は"design"よりも"dimensioning"の色彩が濃く、engineeringにはIngenuityの含意があり、designの哲学的思考順序を階層化すると、需要分析での哲学的判断の余地、対象物(またはシステム)のutilityにもstatus symbol性があり、多目的機能を合成するにも、必要な条件としてthe state of the art, consumers acceptance,社会実験での検証、十分条件としてのesthesticsなどの考察が不可避である、ということが抜け落ちたままで,いわば「用・強」と「安全」とのバランスで設計が進められているのが実情ではないか。

 上の文脈の中で「抜け落ちた」部分が意味論である。意味論と記号論を区別する難解な作業をここでは割愛するが,言語を含めた記号論では,受信者と発信者,中間にあるメディアと"code"などをすべて含めて,「意匠」の輪郭が見えてくる。

 ある単一財の意匠を簡潔に分節化すると、「形状」「模様」「色調」「材料の質感」(とその組合せの美しさ)など、人間の五感での認識が重視される用語になるだろう。しかしもっと複合機能をもった財、例えば住宅になればもう相当な複雑系であるにも拘らず、家は建てるべきものから買う物に社会文脈が変わってしまったのは、意匠とはおよそ縁の遠いX・LDK的な機能を重視しすぎるからではないか。土地を単なる人間活動の支持環境とせず、都市的な意味では地霊の宿る場と考えれば、McHargの手法が日本で普遍化されにくい理由の一端を理解できるだろう。分析gridをいくら小さくしても計画変数は増加せず、かえって複雑性だけが増加するのは、grid間の相互作用または関係性(その審美性は、調和性にもとづくときと緊張性にもとづく場合の両方がありうる)による。この点に思考を移せば、関係性の表現は、Shapiroにとっても絶対必要条件で、もしこのような関係性を意匠の中に取り込めば、意匠とはまさにdesignのdesign,あるいはメタ・デザイン、だからこそ意匠には創造性が要求される。

 「環境意匠」なる用語が成立するとして、これを「利便」「景観」「心地よさ」などと分節するのではいかにも陳腐になる。しかし官庁環境計画では、これらの指標化ばかりが先行してきたのであった。同じような表現でも、前節までに論じた「計画者」につきまとう責任論、意思決定者としての市民、あるいはarchi-tect(ure)が意味する「建築棟梁」「統合された技術性」などは、建築職能論から環境職能論へ連接されるキーワードになるはずである。mediatorやadvocatorがこれに該当しよう。

 明治初年、一般教養人の養成を念頭におきながらも高度職業人の養成を実験的に志向するとして開設された工部大学校は、富国強兵・殖産興業の旗印をモノ造りに転じ、造幣・造兵・造家・造園・造船(naval architecture)など、多くの分野を生み出した。このうち造家はいち早く「建築」に呼称変更されたのだが、architectureの色彩が次第に薄くなって、土木とともにGDPの20%を誇る一大産業分野(この比率は世界でダントツで、第2位のドイツでも7%弱)になってしまった。これがいま地域生活圏・都市域に集中しているのだと考えれば、環境破壊もむべなるかな、環境計画学の失敗研究あるいはnegativismの環境史の意義が明らかになるだろう。

5.当面の環境計画学科の課題

 すでに述べたように、環境計画学科の現在の姿にはここではふれない。しかし教育・研究組織としての学科のあり方には、今後きわめて多くの、ほとんど無限の議論を必要とする。ただしこの時も、際限なく会議(懐疑?)を続けていては、学科のデザイン自体が自己撞着を起こすことになる。そこでこの節では、環境計画学科のメタ・デザインのための主要な展望を箇条書きでまとめておきたい。

 (1) 社会計画と環境意匠の融合

   筆者が県立大学の設立趣旨を始めて聞かされ赴任を要求されたときには、すでに膨大な赴任希望者のリストがあり、県主導で事が運んでいたようだ。学科名にはすぐOKを出したが、専攻の名称はやや長すぎた。「環境社会システム計画」専攻はカタカナを削ったが、「環境・建築デザイン」の建築は、卒業生に1級建築士を取得させるために削除は無理だ、というのが事務局の言だった(環境だけで可能になっている例もある)。多分野の専門家を集めること、つまり異質の糾合こそ今後の大学にとって必要なのだが、例えば、建築学科だけで環境学部をつくったH工大や、土木が中心になって、理工学部を環境理工学部に変身させた某国立大の例など、筆者の目でみれば、文部省までが環境破壊を許容しているのではないか、と疑わせるのである。

 環境計画学科には、計画・意匠・倫理・経済・衛生・地理・システム・住宅・構造・耐震・歴史・景観・CADなど、きわめて多彩なmission-/discipline-orientedの人財(「私の環境学」で簡単にふれる理由によって、材料を指す「材」を使わない)を揃えている。彼らが、学科という「一所」だけで「懸命」にはならずに、多所悠々として22世紀までを見通した環境総合学部づくりを推進する核になるべきである。筆者が昨年12月に京都で企画して成功させた「情報教育を考える」研究会の結論では、体系化された知識(情報)の伝授が教育だ、と誤解していた、専門家と非専門家(もちろん教員と学生も)の区別があいまいになる、とされたように、個々の学生にhidden curriculumを仕掛ける資質を、教員はまず獲得すべきであろう。

 (2) カリキュラム改訂への計画的思考の導入

   現在の環境科学部のカリキュラムは、大学設立申請のプロセスに拘束されて、理想的な教育計画が実現されているとは必ずしもいえない。あまり平凡な理由づけをしたくはないが、これからわれわれ教員が開始せねばならぬ議論は、教員の補充も容易ではない条件下で、大学院の分も含めて、カリキュラムの体系を検討し直すことについてである。教育負担の公平性の問題以上に、筆者らの年齢層の者の後継の問題も大きいだろう。さらに環境計画学科では、より大きな(1)の課題もある上に、最近きわめて活発になりつつある教育技術開発の成果を取り入れることや、やがて襲ってくる教員の任期制への対処の仕方も重要である。しかし筆者の経験では、カリキュラム改訂ほどendlessな議論を誘発する問題はない。

 ここでしばしば教員組織が陥り易い危険は、各自が最も得意な科目に固執して、その総和が当該学科のカリキュラムだという選択をしやすいことである。筆者が京大から阪大への転勤を決意した理由のひとつに、この選択を主張した教員がいたことが含まれている。70年に筆者は工学部改革の議論に過去2年間を完全に費やした余勢を駆って、このままでは阪大環境の後塵を拝するとみて、上下水道などの旧式の科目を一掃し、衛生工学科を環境計画学科型にする抜本策を学科教員に提示したのだが、努力は水泡に帰したのである。

 ただし偉そうなことをいっても、実は筆者にも、3.で引用した「瞬間」と「決定」の時点はいつかということへの確答はまだない。つまり、改訂・改革の大波に翻弄されてはならないということでもある。カリキュラム改訂計画のための多種類の分析データの整備や、何が計画領域に存在しているのかを見極めることから議論を開始すべきことを、ここでは提案するだけでとどめておこう。

 (3) 「地球」への拘りを捨てて「地域学」へ

   上述の「多所」は地球を意味しない。「地球にやさしい」やThink globally, act locally"は最近まで日本をを風靡していたが、もう神通力を失っている。証拠はいくらでもある。もちろん「地球」を禁止するわけはないが、「地域」をlaissez-faireにすら至らない経済に任せっ放しでは、次世紀の地球の時空に環境のモデルを提示できるわけがない。地域には見えない所に学歴とは関係ない貴重な人財が多くいる。この発想で筆者は創設準備の段階で、少なくとも彦根市民から"university mates"を募集して、大学づくりとマチづくりを同時並行的に計画せよと提言したが、完全に無視された。「地域」であるからこそ失敗もよく見えるはずで、いつもウルサイ筆者も滋賀県のために御用学者をつとめたこともある。地域でこそ、大学が「見る・見られる」の、観光的attractive symbolismを備えた地域資源としての再生が図れるのである。

 場と対象をどう選ぶかはともかく、大学の環境系新組織や文部省もきわめて危ない橋を渡っている。京大の人間・環境学研究科の時も科長予定者の竹市明弘(哲学)から筆者は突然電話を受け、「文部省へ至急書類を出さねばならぬので、日本と世界の関連研究の資料を明日までに欲しい」と頼まれた。「人間・環境学の成果は外国にはない、日本にもこれだけしかない、と答えよ」と注釈して、阪大での筆者らの成果を20編ほどまとめて送ったような際どいこともした。

 (4) 抜本的大学改革の先鋒としての環境計画学

   もうあまり多言を要しまい。一昨年の最初の学部セミナーで筆者が提示したD. A. Kolbのモデル"Learning Style"を"Unlearning Style"に変換すれば、activeでかつ省察的、具体と抽象のすべての軸を網羅・止揚した象限に「環境計画学」を遠望できるはずである。

 類似の先例としては、野田一夫(宮城県立大学長予定者)と中村秀一郎(経営情報学)が多摩大で開拓したモデルが徐々に実を挙げている。教員は大学組織から完全に離れ、経済的にも独立する、メディアを含めた大学キャンパスは教員・学生・地域住民の出会いの場として開放される、という仕組みである。これに酷似した構想を、筆者は一部を吹田で実現したし、前の大学に在職中も理事会への提案を怠らなかった。この図式(表題は、Environmental and Tourism Studiesにもとづく地域と大学のネットワーク)をここに掲げたいのだが、もう制限紙数を越えているから割愛することにする。

6.教育社会学者の動向−結びにかえて

 最初は与えられた枚数を全部使う予定はなかったが、推敲がやや不十分で、ダラダラと流してしまったことをまずお詫びしたい。それでもなお田村明(横浜市→法政大・法)をdropし損ねた。筆者の視野が曇っていなければ、彼は日本で最初の『環境計画論』(鹿島出版、1980)の著者である。この本で彼は意匠論を駆使していないが、"plan, do, see"の時系列をヨコハマのまちづくりでひとりで実現したといえる。彼の市民参加の哲学は上記の本の最後に述べられていて、筆者はそれをトヨタ財団のプロジェクトでも感得することができた。

 筆者は田村より先に、『環境計画学序説』を計画していたのだが、これが1975年に『都市環境の蘇生』(中公新書)に化けた。このキーは「潜在廃棄物環境」で、大阪・京都の若い建築家仲間が、駄作を指して「それはゴミだ」と批判する手に使い始めた、という程度の影響を及ぼした。筆者の編著『環境計画論』はようやく1993年に、盛岡の采配と弟子達の協力で仕上がったが、この中には今回の報告の中心筋書である"so"のことは1行も述べておらず、82年の『環境学への道』(思考社)で詳論した。

 もう1件、集団としてdropしておくべきグループがある。ここではいちいち名を挙げないが、大学改革問題の第一線の論壇に必ず登場する「教育社会学者」の軍団で、見えにくいけれども、最近とみに彼らの大学間の移動が目立つのである。筆者のリストでも10人を下らない。これらの人が大学改革計画にどのような役割を果たそうとしているのか、注意を怠ることはできない。わが社会計画専攻にもこの種の人財を配置すべきことはいうまでもない。

 教育社会学者が地域と大学の関係に目を向けた最初の成果は、やや定形的なデータの収録には終わっているが、清水義弘編著の『地域社会と国立大学』(東大出版会、1975)で、文部省科研費による「大学の地域的機能に関する実証的研究」が下敷きになっている。この著者群の中に筆者のリストにあるキーパースンがかなり含まれていて、この頃から「教育社会学」なる名称も使われ始めたと記憶する。ただ注意すべきは、社会学者は計画の実行にはほとんど関与しないかわりに、最近はほとんど「功罪相半ば」以上に、大学の罪を明快な切り口で診断する一般論壇での出版がふえていることである。ここにこれらの社会学者が流入しかけている傾向を無視してはならないのである。

 ついでにもう1件、計画学と切っても切り離せない問題がある。3.で使った「不確実な将来への判断を先送りできない」という表現は、まさに「リスク学」の課題であり、この不確実性は、空間的−地域的、ましてや地球の場合はよけいに−にも必ず存在する。日本のリスク学の熟度自体がアメリカに比して約15年は遅れているといわれ、「安全」を謳えば出る研究費がリスクでは出ないという風潮が日本では依然根強くて、このあたりにも環境計画学が超えるべき壁が存在することを忘れてはならない。自画自賛しすぎることを承知でいえば、88年に日本リスク研究学会を新たに設立して、筆者が初代会長になったのも、計画学の発想の延長上なのだと理解願いたい。

 97年の元旦、友人のN.E.(特に名を秘す、中央政府の環境系から滋賀県に出向して帰任)から意味深長な年賀状が筆者に届いた。いわく、「滋賀県の姿勢、県民の暮らし振りを見ていると、新しい淡海文化の創造は夢のまた夢?」

 滋賀県には県立大学も含まれるだろうし、県民にはわが学生達も入るだろう。ならば、甘い願望的言説で自己陶酔した既存大学の「自己評価報告書」が多い状況の中で、一頭地を抜くためには、古い大学が制度疲労した社会的足枷に縛られているちょうど今こそ、これらの大学の出方を右顧左眄しないことこそが必要なのである。