生物多様性の意義そして実験生態学のすすめ

安野正之

環境生態学科


 環境を論じる時に人間を中心にすることが多い。まさに人間は環境破壊に大いに寄与しているからには忘れてはならない。それが人間の生存を脅かすが故に環境改善をする必要があるというのが大方の論理である。これはかって主体あっての環境であるという環境論と同列のものである。この十年余り生態毒性学を推進してきたが、化学物質汚染によって生態系が破壊されることは究極には人間の健康に影響を与えるから問題なのかと聞かれる。必ずしもそれを否定はしない。しかし加害者が被害者になることを避けるだけなら、健康影響だけを評価すればすむことである。この数年生態影響を健康影響と対比して同等のものとしてリスク評価する傾向にある。必ずしも人間中心的な思想ではなく、生態系破壊が回復不能に陥らないような手だてを必要としているからに他ならない。湖沼の水質を悪くした場合に、これを回復する要する費用は汚濁を避けるに要する費用の何十倍あるいは何百倍もかかるとされている。

 かってのローマクラブの報告で人口増加率が指数関数的に上昇していることがそもそもの地球環境問題の根幹であるということを誰もが認めている。しかも6%の年間経済成長を維持しないと生活水準を維持できないというシムレーシオンを当時の我国がしていたことを思うと、いかに理論値がいい加減であったか。人口増加は予想どうり進んでいる。食料不足、生活空間の不足、エネルギー不足は免れない、結果として生物学的論理による死亡率の上昇がなんらかの形で現れることを予想出来る。あるいは人間の独創的なあるいはSF的な人口制限策が採られることになるかもしれない。

 生物個体群の環境への適応もそれほど融通性があるわけでない。バンコックのネッタイイエカをより乾燥しているインドのデリーで放逐すると、たちまち死んでしまうのである。アフリカでは森林にも生息するネッタイシマカは東南アジアでは人家周辺にのみ生息し、森林へは入っていかない。アラブの乾燥地帯を経由してアジアに持ち込まれたからであるという説がある。かって染色体レベルで遺伝子の入れ替えを試みてきたが、入れ替えの確率は極めて低かった。DNAレベルでの入れ替えによる確率はより高いわけであるが、自然環境への導入についてはまだ十分予測がつかないところがある。

 まだ学生のころHutchinsonのHomage to Santa Rosaliaという小論文を読んで感銘を受けた記憶がある。この著名な陸水学者がイタリア滞在中に調べた小さな池に多くの生物種が生存していることの不思議さを、そこにまつられている聖Rosaliaのおかげと書いたものである。池に生息する生物種の多さの理由は結局分からなかったが、内容は豊富で緯度と生物種の体の大きさまで及んでいた。その頃生物群集の種別の個体数の多さが等比級数に当てはまることを多くの例で示していた。競争の原理で生物における等比級数則を説明しうる論文もだされた(内田俊郎)。しかし生物特有の現象でないこともが指摘された(森下正明)。いずれにせよ生物群集における種数あるいは個体数のパターンはその後も主要な研究課題であることはMacArthurの生態学的地位の分割理論、May等のランダムネスを考慮した理論が進んだとしても変わりはない。生物多様性が増すことで生態系の安定性が増大するか? これも理論生態学者にとって格好の研究課題であるが、実際にはどうなっているのかデータが無いことには意味のないことである。生物多様性が大きい場合に実際に食物連鎖の選択枝が多くなっているのかを裏付けるデータが十分ないのである。そもそも生物種数が多いか少ないかは現実の場における系の安定性を考えるとむしろ少ない方が安定している場合がある。とくに極限環境の生態系では生物種が限定されるがゆえに、それなりに安定した系をつくるようである。多種の生物種からなる生態系はそれだけの生態的地位を用意していることになるが、それをまとまりのある機能群と考えれば逆に多様性の大きい生態系は破壊にたいしては脆弱であるといえる。

 熱帯に生物種が多いという概念は正しいか? 熱帯林に関しては当てはまるとして、陸水の動物プランクトンは南方系だけなのでむしろ少ない。水野寿彦氏によるとマレーシアのベラ湖には鼓藻類の種類が大変多いと言うことであるので、生物の種類による違いがあると思われる。種分化が起こる条件としての隔離機構が存在するかどうか、それらが後で交流したときに共存出来るかどうかにかっかている。まして多様な生物相を維持していく機構についてはわかっていない。そのためどうしても保守的にならざるえない。つまり自然林をなるだけ手をつけずに残しておきたいのである。マレーシアのパソ自然林は平地にある自然林としては貴重なもので吉良先生、依田先生等の研究した森林である。大変多くの樹木の種類が生育しているが、頻繁な種の入れ替えが多様性を可能にするのではないかというのが私の考えである。しかし既に周辺をアブラヤシの畑(FAOは森林としては認めていない)に囲まれてその影響も受けつつあるので実証は難しい。温帯から寒帯にかけての極相林は単一種からなる。常時撹乱を受けると種類が増えることは知られており、上記の熱帯林における入れ替え機構も同じではないかというのは言い過ぎかもしれない。それではどう説明したらよいのか?

 河川生態系においては事情は似ていて、また・違ってもいる。日本の殆どの河川は・藍藻類のChamaeosiphonの2種を優先種としている。出現種類数は限られている。静岡県の狩野川で金鉱山の鉱滓が流失し河床を覆った後しばらくして出来上がった藻類相は此の2種を欠き、多数の種類が出現した。まさに極相が撹乱を受けて多様性が増した例である。撹乱をうけてもこのような現象を起こさない場合もある。この場合でも撹乱直後は流下する土砂の物理的衝撃に耐えられる珪藻の一種が現れたが、土砂の流下が減少すると多数の付着藻類が発生したのである。これは非意図的な環境破壊であるが、その追跡から生態系の回復にようする過程を見いだすことが出来る。このような例は農薬散布の生態系影響の解析においても見ることが出来る。しかし繰り返しの農薬散布はすでにそれに影響を受けた特殊な生物群集を形成させる。実験生態学という言葉はかなり以前から使われてきたが、生態系を対象とするものは極めて限られていた。自然を対象する実験例は更に限られていた。カナダにおける河川、湖沼を対象とした実験例がそれである。隔離水界の利用は自然そのものを対象とする実験から実験生態学の新しい発展をもたらした。大きな相違は実験の繰り返しを行うことで結果の信頼性を得ることが出来るようになったことである。結果として生物群集構造の成因を解明する事が出来た。生物構成種は見かけの集団と平常では隠れていて見えない生物種集団からなっていることも明らかになってきた。酸性雨が問題となって、河川を使うか実験水路による生態系への影響実験が多く行われるようになった。スケールと構成生物種数との関係が実験を限定していることは認めねばならない。