■下石寺町

●地区データ
人口399名 (男185名、女214名)
世帯数107世帯

下石寺町は、かつては上石寺町と合わせて石寺村であった。下石寺が本村で、荒神山ふもとにある現在の上石寺町は枝郷であった。もとは琵琶湖と曽根沼にはさまれた環濠集落だった。集落を囲んでいる水路が環濠の名残であるという。

●環濠集落だった

●若者が祭の準備を務める連中制

祭の準備は連中(れんじゅう)と呼ばれる子供から青年までのグループが行う。連中は3学年ごとに分けられ、上から上連(うわづれ)・中連(なかづれ)・下連(したづれ)と呼ばれる。連中はそれぞれ、世話役・太鼓役・街道役・まめこうの役割を負う。上の役を合わせたものが若衆である。この集落では今でも15歳の元服式がある.。

祭りの進行は慣例に則っていくため、あまり細かい計画はしないらしい。祭り検討委員会が、祭りの前に2回ほど集まり話し合う程度である。忙しいのは若衆の準備である。前日から担ぎ棒を組み立て、当日は朝7時から集まり、太鼓を台に載せたり装飾を完成させたりする。

●下石寺の子供神輿

太鼓登山が出発する前の子供神輿は下石寺の特徴。

下石寺では太鼓が出発する前に子供神輿が集落を回る。子供神輿が帰ってきてから太鼓が出発するのである。

●9町の中でも最大級の太鼓

大きい太鼓を重いバイ(撥)で叩く。最も重いバイは片手で持つのもやっと。けれど、達人は軽々と振りかざす。
下石寺の太鼓は、9町の中でも最大級である。これは一本のケヤキの木をくりぬいて作られていて、同

じ株の下側からは清崎町の太鼓、さらにその下側からは豊郷町の太鼓が作られた。太鼓がいつ作られたか定かではないが、皮の張替えの記録は5回ある。明治21年、明治32年、昭和3年、昭和21年、平成11年である。

第1回と第2回の張替えの期間はわずか12年しかない。これは明治29年の琵琶湖大洪水のために太鼓が半分泥につかってしまったためだ。太鼓の内側にはそこまで泥があったことを示す汚れの線がある。

こんなに大きな太鼓を大勢で運ぶのはもう大変!みんなで力を合わせる。下山のときは、太鼓のかつぎ台につないだ綱を、女性や子供が中心に持って支える。

●曽根沼のこと

曽根沼は琵琶湖の内湖の一つである。圃場整備の目的で、昭和40年代初めに、下石寺のある南側が干拓された。干拓地では柿や梨を栽培している。梨は彦根梨というブランドで売り出しており、「おいしい」と好評である。

集落が琵琶湖と沼と水路に囲まれていたころは、人々は船で移動していた。
曽根沼には漁業委員会があり、沼で取れた魚は公民館の競り市に出された。集落の家の建設に使う石や土、燃料に使う柴や薪などは荒神山から取ってきていた。

祭りの太鼓も、そのころは荒神山山麓まで船に載せて運んでいた。また、祭は現在のように登山当日に終わるのではなく、翌日も太鼓を船に載せ曽根沼に浮かべて、後宴と称して楽しんでいたという。

調査日: 2006.4.16、5.8
聞き取り対象者: 西川時男氏(自治会長) 吉田清一氏(祭検討委員会副委員長) 
西川太平氏(前々自治会長)
聞き取り調査者:西出美保、濱本愛

最大級の、大太鼓